一、御生誕
法然上人が誕生されたのは、長承二年(一一三三)四月七日のことである。世は平安時代の末期、二十数年後には保元、平治の乱が起こり、貴族に代わって武士が歴史の舞台に登場する。約六十年後には、源頼朝が鎌倉幕府を開くことになる。貴族政権の崩壊から武家政権の誕生へ。こうした時代の変遷期に法然上人は八十年の生涯を生き抜かれたのである。
法然上人のご両親はながらく子供に恵まれず、そのため神仏に祈りを捧げ、ことに観音に参詣をし、あるとき母上が剃刀をのむ夢をみて懐妊されたと伝えられている。
法然上人のご生誕の地は、美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町里方)。ここに館を構えていたのが父の漆間時玉公であり、秦氏出身の母である。父の時国公は、この地の押領使である。押領使とは律令の令に規定されたもの以外の官職(令外の官)のひとつで、地方の内乱や暴徒の鎮圧、盗賊の逮捕などの治安維持を受けもつ、警察官的役割を果たしていた。そして在地の豪族などが臨時に任命されていたものが、しだいに常設の役職になっていた。
法然上人の父の時国公は、こうした在地豪族の一人とみなされている。また母の秦氏もその姓が示すように、渡来人系の流れをうけ、古代から知識、経済力ともに豊かな一族で、当時の中国地方にも大きな勢力をもつ家系の出身であったことがうかがえる。
このような背景の出自をもって生まれてきた法然上人は、家系的にも経済的にもたいへん恵まれたなかで、その幼少期をすごされたようである。『四十八巻伝』には両親の見守るなかで、竹馬に跨り元気に遊ぶ幼少の法然上人が描かれている。またややもすれば西の壁に向かうくせがあり、さらに二歳のときはじめての言葉に「南無阿弥陀仏」と称えてみせ、勢至丸の幼名をさずかっていた(『九巻伝』)と伝えられている。
二、父時国公の死
漆間家という幸福な一家を没落にまで追いやる悲劇は、保延七年(一一四一)法然上人が九歳のときに突然降りかかった。当時の稲岡庄の預所であった明石定明らが父時国公の館に夜襲をかけ、時国公が討たれるという事態が起ったのである。
明石定明の父源長明は堀河上皇当時の滝口(警護の武士)である。定明は稲岡庄で荘園の管理をする預所の役職についていた。一方時国公は押領使という律令制度下の地方官人で、この地方の在地の有力者であった。そのため律令制度下の押領使である時国公と荘園制度下の預所である定明とは対立する立場にあった。このような構図は全国的にみられたが、これに私的ないさかいもあったためか、夜襲という事態にまで発展してしまったのである。定明が時国公を襲ったとき、幼い法然上人は、物陰から箭を放ち、みごとに定明の眉間に命中させ、定明はその傷から夜襲の悪行が知られるのを恐れ、他国へ逐電したともいわれている。
さて、武士の子としてこのように勇敢に敵に向かい、小矢児とまでの名をもらったというわが子に対し、父の時国公は、臨終の間際につぎのようにいい残している。「我が子よ、会稽の恥をおもい、敵をうらむことはよしなさい。これはひとえに先世の宿業である。もし恨みを残せばその仇は代々子孫に継がれることになる。はやく俗世間をのがれて出家をし、私の供養をしておくれ」とさとし、端座合掌して仏を念じ、眠るように息をひきとったと伝えられている。終わりのない仇の討ち合いをやめなさい。このような運命も先世の宿業と受けとめ、俗をはなれ、出家の道を選びなさいと遺言されたわけである。
法然上人の出家については、古くから二説ある。ひとつは前述の時国公の遺言説。ほとんどの伝記がこの説をとっている。しかし『醍醐本』によると、時国公は法然上人の出家する前に、「自分には敵がある。もし比叡山に登った後、自分が殺されたと聞いたら後世を弔ってもらいたい」といわれたという。十五歳に登山した法然上人は黒谷の叡空上人のもとに入室し、出家後受戒された。そして修学している間に父時国公の死を聞き遁世したという。けれども父時国公の死がいつであったのか『醍醐本』では明らかでない。そのため現在浄土宗では、法然上人の出家について『醍醐本』説を説かれる人は少ない。
三、菩提寺入寺
法然上人は生まれ育った館から那岐山の中腹にある菩提寺に預けられることになった。菩提寺の往持観覚得業は、秦氏の弟、法然上人の叔父にあたる。もとは比叡山の学僧であったが、出世に不満をいだき奈良に移り、そこで南都六宗、とくに法相の学問を習い、そこで成果をあげられた。その後は美作国に下って、静かな山寺で生活を送られていた。父時国公を失った法然上人は、叔父の観覚のもとに身を寄せることになった。
法然上人は学問を学ぼうとする志が高く、すぐに寺の生活になれ、学問も日一日と上達をされた。その有様は流れる水にも増し、一を聞いて十を悟り、一度耳にしたことは決して忘れることがなかったといわれる。こうした法然上人の器量を見ぬいた観覚は、田舎に埋もれさせてしまうことを惜しみ、比叡山に送って本格的に学問をさせようとされた。
ある日観覚は法然上人を呼び、このことを話すと、法然上人は非常に喜び、上洛して学問をしたいと告げられた。そこで観覚はすぐに法然上人を連れて母上の秦氏のもとに赴かれた。
四、母との別れ
母上を訪ねた法然上人は、「母上と別れることはつらいが、父上の遺言を無視するわけにはゆかない。早く比叡山に登って一人前の僧侶になりたい」と懇願された。母上はただ泣かれるばかりであった。夫には死に別れ、可愛い息子は遠い比叡山に別れてゆく。まだ地元にいれば、たとい別居していても逢うことはできる。しかし比叡山となれば女人結界の山、簡単に逢うことは不可能である。母上のさびしさはいかばかりか、察するに余りある。
さらに法然上人は「母上がこの世にいらっしゃれば、朝晩報恩の礼をつくし、粗末な食でも供える孝養を尽くさなければなりません。しかしながら、迷いの世間を厭って仏道に入り、やがて真実を悟ることが誠の報恩の道であります。しばらくの離別を悲しんで、長い将来に悔いを残さないように願います」と説得されたのである。こうして、うわべの孝養を捨て、真の報恩行を選ぶことにされたのである。
母上は別れゆく子に対して、
かたみとて はかなきをやの ととめてし
このわかれさへ またいかにせん
と詠まれている。この歌の大意は次の如くである。
思いもかけぬ夜討ちに、あえなくも散った男親が、忘れ形見として残してくれたこの子
供とまでも、生き別れしなければならないとは、さてさて身も世もない悲しさである事
よ。
(平成11年度 浄土宗布教・教化指針より)