法然上人(十八歳)は黒谷の叡空の室に入られた。そこで法然房源空と名をつけられた。叡空は円頓戒の正統であり、法然上人はそれを継承され、念戒一致・受戒と五重の浄土宗へと動いて行くことになる。しかし、戒の権威者の御師匠の叡空と戒体のことで論争になった。戒体というのは戒を守り実践していく主体のことで、叡空は良心のようなものと言い、法然上人は「性無作の仮色」と主張された。つまり、単なる良心ではなく、受戒という儀式によって発動してくる本性の身心一如の仮色、即ち身体的なものということで、天台大師も言われていた事であった。そこで、叡空は逆に法然上人を、戒では、軌範、師匠格として弟子となられたという。ここに、その後の上人の受戒活動とか、今日の浄土宗の授戒に発展する事を知るのである。
さて、黒谷では、二十五人の熱心な念仏を中心とする午前《法華経》、午後『阿弥陀経』読誦等を行う二十五三昧会が行われていた。その中心となった源信の『往生要集』(九八五年)は第一「厭離穢土門」と第二「欣求浄土門」、特に穢土の地獄界の叙述は、当代の人々に世相と重複して多大のショックを伴う感銘を与え、多くの影響を残した。近くに学修の法然上人においても当然で、それによって、善導の教えに近づくことになり、四巻のそれの注釈書−『往生要集詮要』『往生要集料簡』『往生要集略料簡』『往生要集釈』を述作をされたことでも分かる。但し、法然上人は地獄等の述べられた穢土の引用は無く、第一「厭離穢土門」と第二「欣求浄土門」、第三「極楽証拠門」)等は、むしろ、法然上人の『往生要集釈』では、往生の要ではなく、第四「正修念仏門」と第五「助念方法門」の二が正しく往生の要行であると、『往生要集釈』(『昭和法然上人全集』二二頁九行)で料簡されている。したがって以下、第七「別時念仏門」以下は至要ではない(『昭法全』二四頁一行)としている。なお、源信は第四助念仏が正定之業と言われるが、善導大師の意はそうではない、とも述べ、源信の『往生要集』で、善導大師に気づかせられ、しかも、大師への求道を進められていることが窺われる。
さて、このように叡山の本流を外れた黒谷では、念仏を中心とする常行三昧が修せられていたが、中心部にも法華三昧堂と円仁招来の常行三昧堂が並び設置され、道場とされた。この常行三昧堂は、『般舟三昧経』というお経の説くところによって、修せられるもので、想像を絶する荒行である。行者は用を足す以外は九十日間ひたすら西方浄土に向かって歩くつもりで阿弥陀仏の名を呼びながら行を続ける。一方の法華三昧堂は《法華経》の観を修行する場である。現在、両堂は渡り廊下で結ばれているから、横からの眺めが、荷を前後に担う形になるので、担い堂と呼ばれる。比叡山延暦寺参詣の人々は、かならず、ちょうどこの真ん中をくぐり抜けて根本中堂の方へ行くわけであるが、ほとんどの人は、その由来というか意義に気づかない。
(平成11年度 浄土宗布教・教化指針より)