以上であるが、《法華経》は菩薩の為の一乗の教えながら、章名の「方便品」と言う如く、本音は、どの様な方法でも仏教の実践への心があれば、誰でも、その人に応じた、千差万別の実践があり、悟りへと進むものである、と強調する。
この点が分からず、多くの人は、《法華経》には何が書いてあるか分からない、中身がないと言う人がある。教理という中身ではなく、方法、方便が万人万様であると言うことが重点なのである。本経を中心とするのは、天台宗、日蓮宗と考えている方が多いのではなかろうか。浄土宗でも、荻原雲來先生の梵本出版があるものの、あまり、関心がないのではなかろうか。少なくとも、法然上人は《法華経》を中核とする天台宗の比叡山に立教開宗の年まで、三十年近くの長き間、学ばれたのであるから、この経を幾たびとなく学ばれ読誦もされたはずである。この時代の法然上人の御研鑽は、後述の他の学習とともに必ずや宗旨に生きているはずである。そこに思いを致すべきであろうというのが、追体験と言う言葉でもある。
さて、法然上人の教えでは、どのように展開したのであろうか。数々の御法語にそれを見ることができる。例を上げると次のような御教えと拝する。
百四十五箇条問答(趣意)
(1)No.11 念仏は百万辺、百度申して必ず往生するというが、(答)それは間違い
で、百度でも十念でも一念でも往生します。
(2)No.14 韮蒜鹿等の臭いがとれなくても常に念仏すべきか。(答)念仏にはなに
も障らない。
(3)No.花香を仏に上げるのは、(答)…花は瓶に、散らしても供養すべし、便悪しく
ば無くともよい。
(4)No.歌読むは罪か。(答)必ずしもそうでない。罪を得るときも功徳にもなる。
(5)No.57 酒のむは、罪か。(答)まことにはのむべくもなけれども、このよの習い。
禅勝房伝説の詞
又、いわく、現世をすぐべき様は、念仏のもうされん様にすぐべし。…いわく、ひじ
りで申されずば、妻をもうけて申すべし。妻をうけて申されずば、ひじりにて申すべ
し。…
● 一人して申されずば、同朋とともに申すべし。
このほか随所におおらかな各人各様の念仏を説かれている。兼好法師も、居眠りが出る時はという問いに法然上人が、目が覚めたら申しなさいと言ったと『一言芳談』に書きしるしているくらい、念仏一行があればどのような道でもという教えは多種多様な方便の道を示されていると思われる。
(平成11年度 浄土宗布教・教化指針より)