法然上人による阿弥陀仏の平等往生の開顕

 変成男子・転女成男による往生や成仏が許されていた時代背景の中で、真の女性開放を説いたのが法然上人である。それは釈尊以後おおい隠されてきたことであって、法然上人に至って初めて釈尊の精神が開顕された。

 法然上人には女性に宛てたお手紙や女性に関説する資料はかなりあるが、女人往生論について言及したものは『無量寿経釈』である。これは文治六年(一一九〇)五十八歳のとき東大寺において講じられたものである。ここではわざわざ「別して女人に約して発願して云わく」として特別に論じている。すなわち第三十五願の願文をあげたあと、ここに疑いありとして、第十八願の阿弥陀仏の本願によれば、男女の区別なく念仏するものはすべて往生せしめると誓われているのに、なぜ再びわざわざ女性のみの往生が誓われているのか、という問いが出されている。

 これについて女性は三従五障の障害があるといわれるから往生できないのではないかとの疑がおきるので別して女人往生の願が建てられたのであるとし、インド以来、女性が差別されてきた歴史が述べられる。また、先にあげた比叡山や高野山においても結界を設けて女性を嫌ってきたことが示れる。男女を区別せず救う阿弥陀仏の本願が誓われているのに、以後の展開の中でなおこのように差別的な扱いを受ける女性に対する配慮から別に女人往生の願を設けられたのであろう、という。そして善導大師の先にあげた文を引いたあと、

   これすなわち女人の苦を抜いて女人に楽を与える慈悲の御意の誓願利生なるなり。

   (原漢文)

という私釈を述べている。善導大師の文をあげているから、法然上人も変成男子の立場を示すものだとする意見があるが、これは念仏生活の立場を示したもので、法然上人の意見は、女人の苦を抜き女人に楽を与えるために誓われたとするところだけであって、法然上人の立場はその他のところでさらに明確にされてくる。

 法然上人には「大胡の太郎実秀が妻室のもとへつかはす御返事」「鎌倉二位の禅尼へ進ずる御返事」「九条殿下の北政所へ進ずる御返事」「正如房へつかはすご返事(これについては未確定の感あり)」「鎌倉二位の禅尼へ進ぜられし書(浄土宗略抄)」「法性寺左京大夫の伯母なりける女房に遣わす御返事」等のお手紙があるが、ここには諸師が問題にしてきた三従五障の女性を蔑視する障害、あるいは女性のみを意識した女人往生については触れられず、当時の多くの武士等の男性に宛てたお手紙の内容と同様で、称名念仏による往生を求めることを勧めておられる。

 法然上人の御消息以外の御法語関係にも男女の区別えをこえた立場の見られる御法語がある。「禅勝房にしめす御詞」には、

   念仏申す機は、むまれつきのままにて申す也。さきの世のしわさによりて、今生の

  身をはうけたる事なれは、この世にてはえなをしあらためぬ事也。たとへは女人の男

  子にならはやとおもへとも、今生のうちには男子とならさるかことし。智者は智者に

  て申し、愚者は愚者にて申し、慈悲者は慈悲ありて申し、邪見者は邪見なから申す。

  一切の人みなかくのことし。

とあり、女人と生まれたのも男子と生まれたのも過去の縁においてであり、これを変えることはできないことであり、阿弥陀仏の本願の聖意はただ御名を称えるものを救うことにあるのであるから、生まれつきのままに申すことに尽きるというのである。

 そして、「つねに仰せられける御詞」には、

   本願の念仏には、ひとりだちをせさせて、すけをささぬなり。すけといふは、智恵

  をもすけにさし、持戒をもすけにさし、道心をもすけにさし、慈悲をもすけにさす也。

  善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきのままにて念

  仏する人を、念仏にすけささぬとはいふなり。

とある。常におことばとして伝えられているというのであるから、これこそ法然上人のお立場を示すものであるといえる。また、同様の御法語が随所に見られる。

 このように男女を差別しない阿弥陀仏の聖意の真意を受けとめられた法然上人は、女人往生について『無量寿経釈』に取りあげながら、後に浄土三部経の釈を整備した『逆修説法』や『選択本願念仏集』では削られている。これはいったいどういうことを示すのであろうか。『選択本願念仏集』には、

   念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きが故に諸機に通ぜず。然えば則ち一切衆

  生をして平等に往生せしめんがために難を捨て易を取りて本願となしたまへるか。

  (原漢文)

とあり、なぜ念仏一行が選ばれたのかという問いに対して「聖意測り難し」としながらも勝劣と難易をあげ、その難易について述べるところに示されるおことばで、阿弥陀仏の聖意はすべての人を平等に往生せしめることにあることを見ぬき、さらに重ねて、

   弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催されて、普く一切を摂せんがために、造

  像起塔等の諸行をもって往生の本願となしたまはず、ただ称名念仏一行をもってその

  本願となしたまへるなり。(原漢文)

と述べておられる。阿弥陀仏の大悲本願は、平等の救済を願っており、念仏するものは生まれつきのままに往生できることを示されている。

 したがって『選択本願念仏集』にあえて女人の救済を説かないのは、真の男女平等の救済を示すことにあったためである。女人往生を特別に説くことはむしろそのまま女性を差別的に見ることになるからである。

(平成10年度 浄土宗布教・教化指針より)