仏教経典における女性

 仏教経典といっても、八万四千の法門といわれるほどの釈尊の説法があるのであるから、これらを一つ一つあげるわけにもいかないので、今は浄土教一般や法然上人における女性観をみる上でもっとも重要な『無量寿経』、そして後世に大きな影響を与え、女人成仏をみる資料として相応しい『法華経』を中心にみていきたい。

 浄土教において、女性差別につながるのではないかといわれるのは、阿弥陀仏の四十八の本願の中の第三十五願に、

   もしわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人あって、我が

  名字を聞いて歓喜信楽して菩提心を発こし、女身を厭悪せんに、寿終の後また女像と

  ならば、正覚を取らじ(原漢文)

とあることの受けとめにある。すなわち十万世界の多くの女性において、女身であることを厭いきらい、浄土へ往生したいと発願して、再び女身を受けるようなことであるのなら仏にはなるまい、という願文を受けて、インドの世親菩薩は『無量寿経優婆提舎願生偈(以下『往生論』)』において、

  大乗善根の界は  等くして機嫌の名もなし

  女人とおよび根欠と  二乗との種生ぜず(原漢文)

との偈をつくり、さらにこれを解釈し、浄土には女性がいないとしたことからはじまるといってよい。もちろんこの解釈が出てくるのがインドの社会にある女性蔑視が背景にあることは言うまでもない。

 インドの女性蔑視の社会風潮に、女性には三従五障のさわりがあるという見方がある。三従とは、女性は幼い時は親に従い、嫁いだならば夫に従い、老いては子に従うものとし、常に従属的存在であるものとすることである。五障とは、女性は梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏陀の五つのものにはなることができない障害があるということである。

 仏教には、もともと女性を蔑視したり人を差別的に見る考え方はないが、このような女性差別的考え方が、不幸にも経典編纂の際に入り込んでしまった。仏教の平等性という立場から、女性が成仏できないと説くことはできず、だからといってインドの当時の社会に平等主義だけでつっぱしっても仏教が受け容れられないという社会状況があって、『法華経』はじめ多くの経典には、両者の意見を折衷したと思われる変成男子ということが説かれるようになる。つまり、女性は一度男性に生まれ変わって成仏するというものである。

(平成10年度 浄土宗布教・教化指針より)