二河白道の図と念仏の心
法然上人の御著『選択本願念仏集』(『選択集』という)に善導大師の御著『観無量寿経疏』(『観経疏』という)の二河白道の譬えが引用されています。お念仏を称えるとき大切な三心の一つである廻向発願心のところであります。至誠心も深心も廻向発願心も阿弥陀仏の信心に無くてはならない念仏の心であります。白道を歩む姿は、三心の統一された心の状態を表したものといえましょう。
『観経疏』に「また、一切の往生人等に白す。いま更に行者のために一つの譬喩を説いて信心を守護し、もって外邪異見の難を防がん」とあります。また、すべての念仏行者は行住坐臥の身口意の三業をなすのに、昼夜区別なく常に心の置きどころとし、この想いを持つようにとあります。
この譬えを知恩院蔵の二河白道の図によって述べましょう。
ここにひとりの人がおります。この人が西に向かって、はるか遠く百里も千里もある道を歩いております。前に二つの河があって一つは火の河で南にあり、一つは水の河で北にあります。火の河は渦巻く炎が河一ぱいに広がっています。水の河は波立ち荒れています。二つの河はそれぞれ河幅が百歩あり、底が知れないほど深く、その果てを見極めることが出来ません。火の河と水の河が接する中間に幅が四、五寸の白い道があります。この道は東の岸から向こうの西の岸に至り、長さ百歩あります。白道は常に、火の河の燃え上がる炎が道にかぶさり焼き焦がし、水の河の波浪は道に打ち上げ流れ濡らしております。白道の上はしばらくの間も穏やかではありません。
この人は遠くはるかなところに来ており、広々としたあたりに誰も出会いません。
まわりをよく見渡すと、かなたに賊が群がり悪獣や毒虫がおります。この人がただ独りであることを知ると競って寄って来て、殺そうとします。この人は殺されるのを怖れ、死ぬことから逃れようとしています。西に走ってこの大きな河のところに来ました。河を見て思うに「この河は北も南も果てがわからない。中間には一つの白い道があるが極めて狭い。この道を渡っていけば向こう岸は近いけれども、火や水で危ない。どうしたらよいだろうか。このままだといまに死んでしまうだろう」と悩みました。
引き返して東の方をよく見ると六人の人がこちらにやって来ます。
冠をかぶり朱の陣羽織を着て、両手で鋭い鎌槍を持って力強く右から繰り出す武者が迫ってきます。その横に、渦巻く頭髪を、宝珠のついた輪の冠で押さえ、両眼をつりあげ、右手で大太刀を振り上げて左手は強く握りしめ、大声で叫んでいます。その右斜め横に、黄黒い髪を逆立て頭上の蓮台に黄色の宝珠を載せた人がいます。両手を胸の前で広げ、しきりに呼びかけています。首に巻く白布や袖から出ている白布が鮮やかで、高い鼻は異国人の相貌をしています。さらに前の方の槍をもつ人の横で、胄をかぶり濃茶色の肩当てに赤衣を纏った人が、左掌を開いて前に突き出し、右手は腰の剣を握りしめています。五人目は、その後ろに緑と茶の色の肩当てに朱色の上衣を着た人で、左手に弓を持ち矢をつがえようとしています。一番後ろにいる冠をかぶった官人が、亀甲の柄の長衣を着て笏を持つ手を袖の白布でおおっています。静かにじっと見守っている貌であります。
これらの人たちは、沸き立つ黒い雲の中に上半身を現し、この人に迫ってきます。
黒い雲のうしろに二人の僧形の人が立っています。一人は、茶衣に袈裟をまとい左手に長い如意を持って、右手に手招くように前に出し、口もとに皺をよせ話しかけてきます。もう一人の、その隣に横顔を見せて緑の衣を着た僧は不安気に見守っています。
東の岸辺に立つこの人は、群賊や僧の様子に驚き恐れました。そこで南に行こうとすると大蛇が大きな口をあけ、赤い舌を動かしながら迫ってきます。近くにいる百足や蜥蜴も競ってこの人の方に向かってきます。前に進めないので引き返し北へ向かおうとすると、かなたから虎が勢いよく走って来ます。傍らには狼や狐や猪などが一緒になってこの人に向かって襲ってきます。
賊の群れや恐ろしい獣や毒虫らに迫られて 身の竦む想いで思案したこの人は、いまはただ西に向かうことしかありません。しかし、白道を渡ろうとすると火や水の河が危ない。進むことも退くことも出来ず、ただ震えるばかりで言いようがありません。迫りくる危機に思うに、
「わたしはいま戻っても死ぬだろう。じっと止まっていても殺されるだろう。また、この細い白い道は渡っても死ぬかも知れない。どれをとっても死から免れられない。そうならわたしはこの白道を尋ね求めて西に向かって歩こう。この道はすぐ前にある。心を決めてすぐに渡ろう」と白道に向かいました。
東の岸に立って思いを決めたとき、この岸に人の声が聞えてきました。
「あなたよ、この白道を一心に尋ね求めて行きなさい。まったく死の苦難はないでしょう。もしここに留まっていたら間もなく死んでしまうでしょう。」と。
この声を聞いたこの人は、声を信じて向こうの西の岸をみると、人がいて呼びかけています。紫雲のあいだから宝楼閣の屋根が六棟と宝樹が六株見えます。
「あなたよ、一つところに思いをかけてすぐに来なさい。わたしはあなたをお護りしましょう。水の波や炎の災難をうけて落ちることを怖れなくてよろしい」と。
白道の上には水の波しぶきや炎の揺れが打ち寄せています。
図には薄鼠色の着物を着て裾をなびかせた長髪の人が、岸から少し離れた白道の上をしっかりと眼を見開き、左斜め上の西岸に立つ人を見上げながら狭い道を歩んでいます。水や炎の波立つ道を裸足の左足を前に出し、一歩一歩進んで行きます。
この東の岸の声は釈迦如来の声であり、西の岸の人は阿弥陀如来であります。東岸からは励ましをうけて送り出され、西岸からはお迎えをいただき、他に心を散らすことなく白道を進みました。怯えもためらいもなく、また疑いもありません。
渡り始めて一分二分ほど進んだころ、東の岸の声から群賊や外邪異見人が喧しく呼びかけてきました。
「あなたよ、戻ってきなさい。この道は険しくて渡りきることは出来ない。進んで行くときっと死ぬであろう。それは確かに疑いのないことである。われらは悪心であなたに近づき呼んでいるのではない」と、再三声をかけてきます。
白道を歩むこの人は呼ぶ声が聞えるけれど、振り返って戻ろうとはしません。西に向かってひたすら進んで行きますと、すぐに西の岸に到り着きました。そして長く諸難から離れ善き友らと会って、安らかに慶び楽しむことが限りなく続きました。
二河白道の譬喩の意味について『選択集』は『観経疏』によっています。
火の河は衆生の瞋憎とし、水の河は衆生の貪欲としています。河のなかの白道は衆生の清浄な往生を願う心であります。われわれの貧瞋煩悩のなかに願往生心が生じることに譬えています。広く何もないところにこの人はやって来て、誰にも出会わないのは人がいないのではなく、常に悪に従うこと多くて正しい道理を教える善知識に出会わないことであります。東の岸で人の声を聞くのは、釈迦如来の現身は入滅されていますが、経典や教ええを頼りとするので声としています。西に向かって歩むのは阿弥陀仏の本願に乗じて西方極楽浄土に往生を願う心であります。
群賊、悪獣や外邪異見の人は、武者、官人、や僧形となり、大蛇、虎などの貌で示しています。これらを衆生の六根、六識、六塵、五陰、四大のことであるとして、人間の精神と肉体、意識と身体の作用する貌であります。
人間の知る働きを仏の教えでは、眼耳鼻舌身意の能力をもつ器官としての六根と、それぞれの活動としての六識、さらにその対象となる色声香味触法の六塵(六境ともいう)からなるとします。さらに知る過程として色受想行識の五陰(五蘊ともいう)の五つに分けて考え、物体をつくる要素として地水火風の四つに分けて四大とします。これらの関わりや活動の貌を群賊などに譬えて、これによって善心が害されつつあり、自力の修行に耐えられない乱想の凡夫であるとします。
善友と相見て喜ぶとは、極楽浄土の阿弥陀如来のもとに到り、阿弥陀仏や諸菩薩らに迎えられて、無限の大生命を心ゆくばかり味わう至上の慶びのことであります。
知恩院所蔵の二河白道の簡潔な図は、五重勧誡に用いるため古く作成されたものでありますが、鎌倉時代から作られている絵図には、精細な情景が描かれた構図のものがあります。
描かれている基本としては次の事柄が入っています。
白道を渡る人(念仏行者)、娑婆世界(東の岸)、極楽浄土(西の岸)、火の河(南)、水の河(北)、白道、群賊、悪獣毒虫、人なき空昿の処、発遣釈迦、招喚阿弥陀、等を挙げることができます。
聖聰上人は『当麻曼陀羅疏』に、二河白道図の浄土の情景は様々であると述べられています。浄土の情景ととも娑婆の情景も多様精細なのがあります。その一つを挙げると、多くの情景を描いた「香雪美術館」の二河白道の図であります。
二河の間の白道は細く、その道を衣に袈裟をかけた剃髪の僧が、岸より少し離れたところに立っています。火の河の炎が揺れている河のなかに、烏帽子をかぶり刀を持った人が薄衣を着て俯せに縛られた女性を押さえています。少し離れたところには弓を射ようと矢を持っている武者がいます。この人たちのいるあたりに燃え立つ長い炎が立ち昇っています。
また、水の河の波立つ中ほどに装束を着けた男性一人が中央に坐し、傍らには紐でしばった行李や箱が四つ置かれています。この人の前に着飾った女性が向かい合って坐り、周りに沢山の荷物などがあります。近くに侍女一人が坐っています。
下方の娑婆世界には、白道の接する岸の上に、白道を歩む僧に続いて渡ろうと、僧衣を纏った三人と笏をもった人が縦一列に並んでいます。近くに一人の紅衣を着た人が両手を前に出して振りながら歩み寄り、しきりに話しかけています。並ぶ四人の左の岸に、蓮台上の釈迦如来と剃髪した二人の僧が立っています。その傍らに如来を拝して合掌する女性が一人坐っています。
並ぶ四人の人に向かって、鎧や胄をつけ槍や刀を持った六人の賊が走り迫ってきます。近くには象や虎や馬などが群れ走っており、黒い雲の沸き立つ中から龍が頭を出し飛びかかろうとしています。
さらに、最も下の方には塀で囲まれた立派な建物があります。当時の建物や庭の光景を写実的に描いてあるのでしょう。屋敷のうちには数名の男女の姿があり、建物や人物の動きにその時代の生活の様子を知ることができます。火の河や水の河の中に、取り出し描いた情景は、人生の四苦八苦に悩み煩悩の多い乱想の凡夫の姿ではないでしょうか。
白道が西の岸に接するあたりに、阿弥陀如来、観音勢至の三尊がそれぞれ蓮台に立っておられます。下には光雲があり、西方極楽より飛来されて白道を歩む人をお迎えになっています。
上の方には宝池や宝橋があり、雅楽を奏でる菩薩や供養する菩薩たちがあちこちに遊行されています。宝池には蓮華が美しく咲いています。さらに上方に、これらを取りまいて立派な回廊が横に続き華麗な極楽浄土の宝楼閣が建っています。
この図の娑婆世界は、現実の情景を写実的に描いています。当時の現状を熟視して、人びとの日常生活に対する深い観察と内省がなされております。真実の生活を求めようとする心の成長にともない簡潔な二河白道の図に、種種添加されて精細多彩化してきたのでしょう。暮らしの中の快楽に無常を感じ、煩悩に惑い寂静を求めて深化する心の表現でありましょう。それにつれて浄土を欣求する心が、極楽の描写も壮大華麗なものになったのでありましょう。
ところで、白道の前に至ったこの人は、東に行っても、南に行っても、北に行っても身に危険を覚え、恐れ苦しみました。そして決心して狭い白道を歩み西に向かいました。
死に迫られるという逃げ場のない状況に出会い、人間存在の根底に触れました。自己の依りかかる何ものもない状態に目覚めることとなって、これを機縁として信心が芽生えました。仏を信じることを支えとして生きることを体得したのであります。
また、人なき昿野をもって譬える空虚さ淋しさから脱して、人生に生きる力を与える善知識の存在が必要であり、求められましょう。善知識とは阿弥陀仏であります。また釈尊との出会いであります。さらに私たちにお教えをいただいた法然上人との出会いであります。この善知識との出会いをもつご縁が多々あり、この出会いを持つことこそよりよく生きるために大事であります。老病死を避けることができないわれわれは、無人の昿野で苦悩することなく白道を歩む人生でありたいのであります。
なお、この人が白道を歩み出したとき、群賊、外邪、異見の人が引き止めようと声を掛けてきました。黒雲の後ろに二人の僧が立っています。如意を持つ僧はしきりに喋っています。自力門の人かも知れません。声が聞こえて心穏やかでなかったでしょうが、この人は一心に白道を渡り切りました。
法然上人のご在世のころも、浄土門に対する熾烈な発言もありました。しかし、自然の道理である阿弥陀仏の本誓の尊さは誰もが認めるところとなりました。それは人間性の自覚にたったお念仏だからであります。いかなる人でも、いつでも、どこでも口称念仏の行いに身をうち込むとき、阿弥陀仏の摂取来迎にあずかります。そこに現在と未来との明るい安らぎの生活が開けてくるのであります。
(平成10年度 浄土宗布教・教化指針より)