阿弥陀仏号で想起するのは、自ら「南無阿弥陀仏」と称した東大寺の俊乗房重源である。重源の阿弥陀仏号については、法然伝や『愚管抄』に語られている通りで、念のために紹介しておこう。
まず、聖覚はその著『黒谷源空上人伝(十六門記)』(第十)において、
東大寺の大勧進俊乗房重源上人、念仏信仰の余に一の意楽を発て、我が国の道俗、閻
魔呵責の庭上に跪て、其名字を答ん時、仏名を唱しめん為に阿弥陀仏名をつくべしと
て、先我が名を南無阿弥陀仏とぞ号せられける。我が朝の阿弥陀仏名は此より始れり。
と述べている。また慈円も『愚管抄』巻六において、
大方東大寺ノ俊乗房ハ、阿弥陀ノ化身ト云コト出キテ、ワガ身ノ名ヲバ南無阿弥陀仏
ト名ノリテ、萬ノ人ニ上ニ一字ヲキテ、空阿弥陀仏、法アミダ仏ナド云名ヲツケゝル
ヲ、マコトニヤガテ我ガ名ニシタル尼法師ヲゝカリ。
と見られる。
このような阿弥陀仏号をすすめた時期は、恐らく平氏の滅亡期の寿永二年(一一八三)頃より始めたものと考えられ、重源が大仏勧進職に補任され、東大寺再建にたずさわるに当たり、庶民大衆の結縁に大いにその方便を利用したものと想像できる。
(平成10年度 浄土宗布教・教化指針より)