『今昔物語集』には往生人の話が収めてあるが、そのなかで讃岐国の源太夫の出家往生譚はきわめて印象的である。
源太夫は心猛く殺生を業とし、人から恐れられた悪人であった。ある日狩りから帰
るとき、とある仏堂にさしかかると、仏経供養の講が行われていた。源太夫は馬から
下りて堂に入り、講師に「お前は何を説きたいのだ。俺が感心するようなことを聞か
せてみよ」と刀をちらつかせていう。講師は仏助けたまえと念じながら、「ここより西
の方、多くの世界を過ぎて阿弥陀仏がまします。この仏は心広く、年ごろ罪を造り積
んだ人でも、思いかえして一度�狷醋軌ぬ鐶吠��瓩反修擦弌�必ずその人を極楽浄土に
お迎え下さるでしょう。さすれば思うことはなんでも叶う身となり、遂には仏とこそ
なるでしょう」と答えた。源太夫は「その仏は俺をにくみ給わないのか」と聞く。講
師がそうだというと、「では俺もその名を呼ぼう、弥陀は答えられるのか」と重ねて聞
く。「まことの心をいたして呼び奉れば、どうして答えられないことがあろうか。仏は
だれをもにくしと思われないが御弟子になれば今少しよく思われるだろう」というと、
弟子とはどのようなものかと尋ね、頭をそればみな仏の弟子だと教えられ、刀を抜い
て自ら髻を根ぎわから切ってしまった。講師はもとより、その場にいあわせた者は驚
き、郎党どもは何ごとかと走り入ってきた。源太夫は頭を洗い、講師に向かって剃れ
というので、講師は高座から下りて頭を剃り、戒を授けた。
このあと、入道した源太夫は袈裟をつけ、金鼓を首に懸け、「俺はここから西に向かっ
て阿弥陀仏を呼び金鼓を叩いて、答えていただける所まで行こうと思う。答えがない
限り、野山であれ、河や海であれ、ひきもどすことなく、どこまでも西を指して行く
のだ」といい、「阿弥陀仏よや、お―い、お―い」と金鼓を叩いて歩きだすと、郎党ど
もが共に行こうとするので、「お前らは、わが道の妨げになる」と押し返すのであった。
かくて西に向かって阿弥陀仏を呼び求めて、深い川があっても浅い所を求めず、高い
峯もまわり道をせず、倒れ転びつつ、西の方に行くと、日暮れてとある寺に行き着い
た。源太夫は住持の僧に「わき目をしないで、いわんや後を見返らないで、これより
西方へ高峯を越えて行こうと思う。七日後に俺の居るところへ必ず尋ね来い」といっ
て西へ向かった。七日後、住持の僧が尋ねて行った。高い峯を越え、もう一つそれよ
り高くけわしい峯に登ってみると、西に海がひらけた。
源太夫は断崖から突きでたところの二股の木に登って、金鼓を叩きながら「阿弥陀
仏よや、お―い」と呼んでいた。住持をみて「ここよりさらに西に行こうと海に入り
かけたが、ここで阿弥陀仏が答えられたので、呼び奉っているのだ」という。住持は
あさましく思って「どのように答えられるのか」と問うと、源太夫は「呼んでみよう、
聞け」という。「阿弥陀仏よ、お―い、どこにおわすのか」と呼ぶと、海の中から「こ
こにあり」と微妙の声がした。源太夫は涙を流して「すぐに返って、七日後にここへ
来て、俺の有り様を見届けよ」というので、住持は帰ったが、七日後再び来てみると、
以前のように木の股に西に向かっていた。しかし今度は死んでいた。みると口から蓮
華が一葉生えていた。住持はその蓮華を手折り、遺体を葬ろうとしたが、源太夫がわ
が身を鳥葬に付そうと思ったのかもしれないと考え直し、そのままにして帰った。そ
の後どうなったかわからないが、源太夫は必ずや極楽に往生した人に違いない。
極悪人も、真実、心の底から阿弥陀仏を呼び求めれば、その直き心に阿弥陀仏も必
ず応えられるのだという想いが当時ひろがっていたことがわかるのである。
(平成10年度 浄土宗布教・教化指針より)