往生伝を読んで心に残るのは、性向正しき高僧貴紳の往生よりも、極悪者の往生についての鮮烈な印象である。
武勇の家の出で、闘争を事とし、人の首を切り、生きものの命を断っていた源頼義は伊予守に任ぜられて、「その後堂を建てて仏を造り、深く罪障を悔いて、多年念仏し、遂にもて出家」し、著者の大江匡房から「定めて知りぬ、十悪五逆も猶し迎接を許さるることを」と評されている(『続本朝往生伝』)。
源雅通は、世事にひかれて、多くの悪業を作り、狩猟を好み、邪見放逸であったが皮『法華経』提婆品の「浄心信敬、不生疑惑者、不堕地獄伝々」の文を唱えて亡くなったが、聖行円は雅通が往生したことを夢告で確信した。しかし、藤原道雅はこのことを信じず、一生殺生していたものが何の善根によって往生したかと誹謗し、往生を願うものは殺生を好み、邪見を行うべきかなどというのであった。しかし、六波羅密寺で聴聞していた年老いて善根を作らなかった一老尼に夢告があり、「歎くことなかれ、ただ直心に念仏せば、必ず極楽に往生せむ」と教えられた。雅通も直心に『法華経』を受持したので善根を作らずとも往生したのだとも告げられた。老尼のこの夢を聞き、道雅は始めて信心を生じ、ながく疑惑を断ったのであった(『拾遺往生伝』)。
造悪無慙などの悪人が極楽往生をとげた例は、人の奴となって駆使されていた近江国高島郡の薬縁法師(『拾遺往生伝』)、中年以後田園にもどり、狩猟を業とした同国浅井郡の鹿菅太(同上)、一生の間殺生を事とし、鱗甲を漁るを産業とし、禽獣を殺して活計としていた左京陶化坊の匹夫下道重成(同上)、奴袴君と字名して、盗殺を業としていた東獄の隣僧(『後拾遺往生伝』)、定夫なく好色愛欲流転に沈んでいた遊女傀儡らしき陸奥の一女性(同上)、羽猟を事とし、梟悪、無慚、無愧であった甲斐国の丹波太夫(『三外往生記』)、常に鷹犬の遊びを好み、雉兎を獲るのを楽しみとしていた左近将曹秦成元(同上)などにみることができる。
(平成10年度 浄土宗布教・教化指針より)