法然上人の念仏行
一
法然上人の念仏行はどのようであったかということに思いを致す時、我われは法然上人ご自身が『選択本願念仏集』第十六篇の私釈段の終わりに、善導大師を鑽仰されて後に、書き残されている述懐のご文を忘れてはならないように思う。
ここにおいて貧道(沙門の謙称)むかしこの典(観経疏)を披閲して、ほぼ素意を
識り、立ちどころに余行を舎てて、ここに念仏に帰す。それよりこのかた今日に至る
まで、自行化他ただ念仏を縡とす。しかる間まれに津を問う者には、示すに西方の通
津をもってし、たまたま行を尋ぬる者には、誨うるに念仏の別行をもってす。これを
信ずる者は多く、信ぜざるものは尠し。まさに知るべし、浄土の教は時機を叩いて行
運に当たり、念仏の行は水月を感じて昇降を得たり。
このおことばは、建久九年(一一九八)『選択集』ご述作の御年六十六歳の時のものである。法然上人が善導大師の『観経疏』に導かれて、はじめて浄土門に入られたのは、『源空聖人私日記』等の記述によると四十三歳の時であるから、このおことばは浄土立教開宗後二十三年も経たご述懐ということになる。
顧みると、二十四歳にして叡山を下り、南都に求法された法然上人ではあるが、ご自身の学解を超えた学匠に遇われることはなかった。やむなく叡山に帰られて以後、二十年に垂んとする独学の道を歩まれることになる。その間のご苦労や葛藤はいかばかりであったであろうか。そのことについては、建久八年(一一九七)から元久元年(一二〇四)までの足掛け八カ年、法然上人から浄土の教えを受学された二祖鎮西上人は、法然上人のご述懐を次のように記しておられる。
およそ仏教多しといえども、所詮は戒定慧の三学に過ぎず(略)ここに予がごとき
者は、すでに戒定慧三学の器にあらず、この三学の外に我が心に相応する法門ありや、
この身に堪能なる修行ありや、万人の智者を求め、一切の学者に訪えども、これを教
うる人なく、これを示す倫なし。しかる間、歎き歎き経蔵に入り、悲しみ悲しみ聖教
に向いて、手ずからこれを披いてこれを見るに、善導和尚の『観経疏』に「一心専念
弥陀名号、行住坐臥不問時節久近念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」といえる
文を見得るの後、我等がごとき無智の身は、ひとえにこの文を仰ぎ、もはらこの理を
憑み、念念不捨の称名を修して、決定往生の業因に備うれば、ただ善導の遺教を信ず
るのみにあらず、また厚く弥陀の弘願に順ず、順彼仏願故の文、神に染み、心に留ま
るのみ
法然上人は以上のように鎮西上人に語られ、続けて恵心僧都の『往生要集』の文を披くと「往生の業には念仏を本とす」とあることや、同じく恵心僧都の『妙行業記』には「往生の業には念仏を先とす」とあることを述べられ、さらに覚超僧都の「汝が行ずる所の念仏は、これ事を行ずとやせん、これ理を行ずとやせん、如何」という問いに対して、恵心僧都は「心、万鏡に遮えらる、ここをもって我ただ称名を行ずるなり、往生の業には称名をもっとも足りぬ。これによって一生の念仏、その員数を勘うるに二十倶胝返なり」と答えられたことを紹介して、次のように仰せられたという。
しからばすなわち源空も、大唐の善導和尚の教えに随い、本朝恵心先徳の勧めに任
せて、称名念仏の勤め、長日六万返なり。死期ようやく近づくによって、また一万返
を加えて、長日七万返の行者なり。(徹選択本願念仏集上巻)
以上、鎮西上人伝聞の法然上人のおことばは、ほとんどそのまま『四十八巻伝』第六巻第三図の下の詞書に収められている。
通常、法然上人の浄土門帰入の機縁は『醍醐本法然上人伝記』「一期物語」等に「往生要集を先達として浄土門に入るなり」とあることによって、まず恵心僧都、そして善導大師へと、その教えの源をたどられたことになっているが、この鎮西上人の記述によると逆のようにも解される。ここではそれらのことを論ずるのではなく、法然上人が浄土門に帰入されて以後、その念仏行の実践はどのようであったかを知るために、一番信頼のおける記録として、法然上人ご自身のおことばを出したまでである。いずれにしても鎮西上人は、直接に法然上人のおことばを聞かれて記述されたのであるから法然上人の念仏行に関する記述は、事実として信ずるに足るものがある。これによると、間違いなく法然上人は、長日五万六万七万遍の専修念仏を行ぜられた念仏者であったことを知ることができる。
(平成10年度 浄土宗布教・教化指針より)