四 念仏の教え

 『選択集』十六章段で論述されている内容は、浄土三部経を中心として善導の著書などを基本資料として念仏一行の選択、すなわち「念仏の教え」を体系づけたものである。二祖弁長は『徹選択集』上に、

   上人(法然)手づから三部経を料簡して、我が朝に始めてこの義を立つ。唐土(中

  国)の人師所立の義の中には、この選択の義全く以ってこれなし。

といい、法然上人が「諸師所立の念仏・善導所立の念仏」のうえに、さらに選択の一義を加えて「法然所立の選択本願念仏」をうち立てたことを明らかにしているが、選択本願念仏こそ法然上人の開顕した独自の念仏の教えであるというべきである。

 ところで選択本願念仏・称名念仏の行が、阿弥陀仏の本願の行であるということは、本願という阿弥陀仏自らの意志(本願=聖意)によって、あらゆる行の中から称名念仏の一行が選択されて、万人平等に救いとられていく教え(行)とされたのである。

 そこで法然上人はこの称名念仏の一行が選択された理由を二つのことをもって明らかにしている。その一つは、称名念仏の功徳はほかの諸行に比べて勝れているからだという。それは「名号はこれ万徳の帰する所なり」といい、阿弥陀仏のすべての内証の功徳(智恵のはたらき)と、すべての外用の功徳(慈悲のはたらき)とが、名号の中に含まれているという。だから名号を称える称名念仏が選択されて、諸行は劣るものとして選捨されたのである。その二つは、阿弥陀仏が称名念仏の一行をもって本願(聖意)の行とされたのは平等の慈悲に催されて、すべての人びとを救わんがため、称名念仏こそ人びとにとって修しい易い行であるからこれを選択されて、すべての人びとに通じない諸行は修し難いからこれを選捨されたのである。

 ここに法然上人によって、従来の仏教・智恵をみがいて法をさとるという聖道門の修行を捨てられて、ただ阿弥陀仏の本願を信順して、本願のままに称名念仏を修し、阿弥陀仏のみ力に救われていく、浄土門の「称名念仏」の教えがうち立てられたのである。これはまさに法然上人によって、法をさとる「法による仏教」から、仏に救われる「仏による仏教」へと転換されたのであり、新しい仏教の体系「念仏の教え」が開示されたというべきである。

 この法然上人によって新しくうち立てられた「念仏の教え」称名念仏とは、いうまでもなく南無阿弥陀仏と阿弥陀仏のみ名を口に称えることである。これがまさに称名念仏と呼ばれる教えであるが、阿弥陀仏のみ名を声に出して称えるということは、その称名の行為において、称名する私と、称名される阿弥陀仏との間に、人格的なかかわりの意識がはたらくのではなくてはならない。名はたんなる名ではなく、名は人格をあらわす(名体不離)。すなわち名は人格を示すことにおいて名であり、名を離れた人格、人格を離れた名はありえないのである。

 したがって、阿弥陀仏のみ名を称えるということは、阿弥陀仏という救済仏のその宗教的人格を呼びかけることであり、自らの名を呼びかけられた阿弥陀仏は、呼びかけた人にその宗教的全人格をもって応えるのである。少なくともこのような人格的呼応の関係がもたれるところに、称名念仏の宗教的実践とされるゆえんがある。『選択集』の最後に「浄土の教え、時機を叩きて行運に当り、水月を感じて昇降を得たり」といわれているのは、称名念仏の感応道交・人格的呼応のかかわりをいっているのである。

 『選択集』に「往生の業には念仏を先となす」とあり、『一枚起請文』に「只一向に念仏すべし」と結ばれているが、これがただ一方的な称名であってはならないのである。称名する私と阿弥陀仏との直接的な人格的かかわり合いがもたれるところに、称名念仏の称名念仏たるゆえんがあるというべきであろう。

 『選択集』の結論とみなされる要文(略選択)に、

   それ速かに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中には、且らく聖道門を閣きて

  、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中には、且らくもろも

  ろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲せば、正助二業の中に

  は、なお助業を傍にし、選んで正定を専らにすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏

  名を称するなり。名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故なり。

と示されている称名念仏も、たんに呼びかけにおわる称名であってはならないのである。

(平成10年度 浄土宗布教・教化指針より)