―念仏の心・念仏の人―
この『布教指針』は、平成七年度から本年の『選択本願念仏集』奉戴八〇〇年の記念すべき年に向けて、各年度ごとに、逐次、【選択】【本願】【念仏】の三つの連続したテーマの下に、解説され編集されてきた。
このような試みはこれまでなかったことであるが、浄土宗では本書を『選択集』と略称することが多く、それだけに、『選択本願念仏集』の書名の意味を、改めて一字一字深く受け留めることに役だったのではないかと思われる。三つのテーマを再確認してみる。
【選択】(1) ―選ばれた道一筋に―
選択といえば法然上人、法然上人といえば選択と言われるほど、法然上人の勝れた浄土三部経、とくに『無量寿経』の読みの深さが有り難く思われる。阿弥陀仏前生の法蔵菩薩が、極楽浄土に、十万全世界仏国の最高の功徳を、『無量寿経』の文言では「摂取する」と訳されているのを、法然上人は、その古訳の『大阿弥陀経』『平等覚経』では、「選択する」となっていることを注目されたのであった。
法然上人は「摂取」と「選択」とは言葉が異なるが意味は同じであると言っておられる。確かに原典の梵語もサングラハ(取る、採る)で同じである。しかし、法然上人は「摂取」と「選択」との中、「選択」のほうを撰ばれ『選択本願念仏集』の書名の最初に持ってこられ、『選択集』、念仏信仰全体の基調を示されるのである。「意同じ」と言いながら「選択」の方を採用されたのである。「意同じ」と言うのは、同じ仏の聖典の言葉であるから、どちらかを批判し捨てるような形はさけられたのである。この「選択」の言葉は今日、改めてその意義を味わうべきである。
【本願】(2) ―生かされる道一筋に―
「其仏本願力」の言葉は、日毎日毎にお唱えしており、本願ということが、今回の記念すべき年に、さらに認識が深まることと思われる。今回の『布教指針』では、「生かされる道一筋に」というように表現されている。「教諭」では「空気といい水といい、草木の緑といい、天地一切が実は仏の私たちを生かし育まんとの本願力による施設であり、手段であったのです」と言われている。
本願とは何か、ということを一般の方にお話しする時には、例えば、本堂での法話では、私はこのようにお話しする。
「皆さん、今日はお繰り合わせよく参詣いただきました。この寺では、もう四百年以上も、このように、大勢の信者の方々が、ご本尊様の御前に参集されて、法要や仏事が行われて参りました。お寺のように、一つの土地や建物の施設があるもの、例えば、会社や商店や各種団体は昔から無数に生まれましたが、多くは、時代とともに盛衰を繰り返し、特に、昨今のように経済不安の中には、消えていくものも数多くあります。お寺だって似たようなものなのに、このお寺は、創建当時とあまり変わりません。
歴代の住職や世話人の方がいつも、すべてがすべて力があったとも思えませんし、たいてい幾度かの戦乱や災難を受けています。何年たっても変わらずに中心となって皆さんがた私たちを見守っているのは誰でしょうか。皆様をここに引き寄せているのは誰でしょうか。変わらずにその力となっているのは、正面におまつりしてある阿弥陀様であります。この方だけが唯一変わらずに私どもを見守っていて下さいます。
その不思議な力を持っている阿弥陀仏はどのような方でしょうか。浄土宗の三部経の一つ『無量寿経』―もう二千年前からあります―に説かれています。昔々、定光如来という仏様から数えて五十三代目の世自在王如来から、阿弥陀仏となる前世の法蔵菩薩が二百十億もの仏国土のことを示されました。法蔵菩薩は五劫という長い長いあいだその浄土建設の清浄な行について考えられて、今私どもに数えられている浄土極楽が完成したのであります。
少し難しいお話になりましたが、言いたいことは、この浄土の数えが、限りもなく大昔からの仏様の教えに連なっている阿弥陀仏の本の世からの永遠の昔からの仏様の願であるということです。それは実際に、この私どもが今お読みしているお経自体二千年の間、大勢の人々に信じられ今に生きていることでもあります。まことに不思議であります。なぜでしょうか。お経には説明はありませんが、私はこう思います。永遠の過去から永遠の未来に、このお念仏の教えが続くというのは、お念仏というのは、もっとも普通な、もっとも平凡な、もっとも人間的な我々を対象にしているからだと思います。
さらに言いますと、石川五右衛門が泥棒は浜の真砂のようになくならない、と言っていたように、我々凡夫も永遠の昔から永遠の未来までなくなりません。我々に救いの手を伸べてくれる念仏のお経も永遠の昔から永遠の未来まで、なくなりません。とても能力が勝れた、とても行いの正しいエリート、聖人の教えばかりでは、限られた範囲にしか生かされずに、どこでも、いつでも、行住座臥、時節の久近を問わない念仏のお経は永遠であります。
本願の「本」はそのような意味を込めた「本」、永遠の昔から、そして、永遠の未来まで我々の煩悩とともに力となる無限の意味と解釈されます。
本日、皆様がご参詣されているのは、お寺から案内が出されただけではありません。お寺は昔からの阿弥陀仏のおかげで今日があります。皆様も阿弥陀仏を信仰されるから参詣されている。そうなると、目には見えませんが、不思議な力で、この法会が成り立っていることが分かります。それが一つの、本願の力と思います」
【念仏】(3) ―念仏称名一筋に―
法然上人によって浄土三部経が示されましたが、平成九年度『布教指針』二十四頁の表に示したように、お念仏は『観無量寿経』下品が基準であります。
それに合わせて、『無量寿経』の「十念」は「十念仏」であり、また、『無量寿経』の「唯除五逆誹謗正法」の文は『選択本願念仏集』では削除されています。
『阿弥陀経』の「聞説阿弥陀仏 執持名号」は「称名」と考えるべきです。
念名と持名と称名とでは言葉は違うが、すべて、称名である。なぜならば、仏教では、仏像も同じで、最初は仏像は造られなかったが、おそらく最高の仏、釈尊を人工で造作することは不敬であり、わずかに、所在を示す座、場面などを示した考えと同じである。称名も古くは、仏の名を呼ぶのは古くは一般人は不敬という考えのようで、『般若経』では衆生は諸仏が称名するのを聞く、つまり「聞名」としか示されていない。しかし、後代の『華厳経』などになると、『阿弥陀経』の「執持名号」の文字は「称名」と訳されている。したがって、念名と持名と称名とは、すべて称名と考えるべきである。
以上の三つのテーマのまとめとして、本年は、次の鑽仰篇となったのである。
【選択本願念仏集】(4) 鑽仰篇 念仏の心・念仏の人
平成七年【選択】・八年【本願】・九年【念仏】の三つの連続したテーマの、当平成十年は『選択本願念仏集』奉戴八百年記念の総括として、この『選択本願念仏集』を奉戴した人々、「念仏の心・念仏の人」について編集され鑽仰篇とした。
先ず第一章『選択本願念仏集』によって、三年に分けて展開した『選択本願念仏集』(1)(2)(3)がまとめて説かれた。
次に第二章では、『選択本願念仏集』の意義、ご撰述のいきさつ、構成、及びその教えが簡潔にまとめ示されている。
この「念仏の心・念仏の人」のもっともお手本は法然上人の御一生そのものであるが、それが第三章「法然上人の念仏行」である。古来、この「念仏の人」は浄土宗では「往生人」という言い方で説かれてきた。第四章「往生人における念仏の行者」で、様々な当代に生きた念仏者が往生願生者の指標となった模様が明らかにされた。続いて第五章では、法然上人時代に近い、「中世の念仏者たち」が論じられた。さらに、第六章「往生人の念仏の心」では、近世、特に『往生聞書』によって念仏者の心が具体的に述べられてある。
第七章「二河白道の図と念仏の心」では具象的に念仏者、往生人の心、行動が述べられている。各寺院それぞれの図があると思われ、それぞれに説明がなされて来たことでもあろうが、ここでは知恩院所蔵ので説かれている。
そして第八章では、法然上人の女性救済について述べていただいた。
以上四年にわたって連載された『布教指針』『選択本願念仏集』(1)(2)(3)(4)を終わるのであるが、本書を【選択】【本願】【念仏】の三つにわけ、それぞれの意味を考えたことは、有意義ではなかったかと思う。
(平成10年度 浄土宗布教・教化指針より)