第九章 生活篇

念仏の心

 『般若心経』は般若(知恵)の心を述べた経典である。その意味では浄土三部経は念仏心経であるともいえる。「念仏の心」は浄土三部経に説かれている。法然上人が「偏依善導」であるとした善導大師の『観経疏』にも「念仏の心」は説かれている。そして法然上人自身によって『選択集』および「一枚起請文」の中に特に「念仏の心」が説かれているのである。

 謎解きなどでよく「その心は」という。それは謎に秘められているほんとうの意味は何か、ということである。「念仏の心」は、念仏という教えと行のほんとうの意味は何か、そのエッセンス(本質)は何か、ということであるといえる。

 すでにこの『布教・教化指針』の中で、「念仏とは」「念仏の意義」「念仏の利益」等々のことが、随所に説かれている。それらは何らかの意味で「念仏の心」を語っているのである。したがって、ここでは、少しく観点を変え、やや異なった視座から、「念仏の心」を述べてみたい。

 私どもは人々の間で生き、人々は世界の中で生きている。この事実をどのように捉えるかによって、私どもに、人間観・人生観・世界観が生じる。そのような「観」が大事なことは言うまでもない。アメリカの思想、プラグマティズムの主張者、W・ジェイムズは、人間観・人生観・世界観の大事なことを、次のような譬え話で述べている。下宿の女主人が下宿人を選定するとき、その人の懐具合を知るよりも、まずその人の人間観・人生観・世界観を見極める必要がある、と。これはおそらく、このような意味であろう。懐具合ならば、よい時もあり悪い時もあり、下宿代を払おうというスタンス(構え、基本態度)さえあれば、払ってくれる。しかし、もしイデオロギーとして、下宿の女主人は資本家、ブルジョアで、下宿人はプロレタリアートであって、その間には闘争があってしかるべきだとする「観」があると、なかなか一筋縄では払ってくれそうもない。ジェイムズが言う人間観・人生観・世界観が大事だというのは、おそらくそのようなことだろう。

 では、法然上人は、このような人間観・人生観・世界観については、どのように言っておられるのだろうか。法然上人のお言葉「現世をすぐべきようは、念仏の申されんようにすぐべきなり」には、ここで問題とする人間観・人生観・世界観が凝集して語られている。大正期に『出家とその弟子』を著して注目をひいた倉田百三は、昭和の初期、法然上人のこのお言葉を引用し、絶賛している(昭和十三年『浄土』誌)。その理由は(ニーチェの表現を借りれば)「一切の価値の価値転換」だからというのである。つまり、現世を基準とせず、念仏という超三界の絶対価値を基準として現世に臨むからだというのである。

 「現世をすぐべきよう」を現世のうちに求め、いわゆる現実主義をもって自己自身の行き方とする人もあるだろう。しかし、そのような人は、かの広大無辺の「念仏の申されん」領域のあることに気づかない。気づかないままで一形を尽くす。では、現世を超えたところにのみ基準を置く場合はどうであろうか。そのような人は、「宙に浮いた」根なし草のように、現実には何事もなさないままに打過ぎていくであろう。これに対して、「現世を過ぐべきようは、念仏の申されんように」とは、超三界の念仏を基準としながら現実の世界の中で念仏行を営むことである。だから「一切の価値の価値転換」といっても、転換し放しであってはならず、そのことを通じて現実をつくり変えていくことでなければならない。それは、よく言われる「人間観ががらりと変わった」ということの、もっとも徹底した姿なのである。

 人生観と世界観とは同じではないが、かなりの部面で重なり合っている。人生観が、人生をどのように観るか、人生でどのように行為するか、という人間の基本的な態度にかかわることは、あらためていうまでもない。これに対して、世界観は、宇宙観とも自然観ともいえる面を有するけれども、いずれにせよ、人間が世界(宇宙・自然)の中でどのような位置にあるかを、人間が観ることにほかならない。観るといってもそこに実践が加わり、世界の中で人間がいかに行為すべきかが、同時に問題となるのである。世界観といっても、人生観と同じく、人間が問われるのである。したがって、人生観にせよ、世界観にせよ、人間観が根本にあることに変わりはない。人間観・人生観・世界観は少しづつ重なり、相互に影響しあい、中でも人間観が基礎をなすのである。

 そのような人間観・人生観・世界観が、念仏によって、「現世をすぐべきようは、念仏の申されんようにすぐべきなり」によって、「がらりと変わる」とすれば、たいへんなことだと言わなければならない。

 すでに述べたように、現実だけの現実主義は豊かでなく、理想だけの理想主義は根なし草となる。真の現実主義は理想主義でもなければならないし、真の理想主義は現実主義でもなければならない。「現世をすぐべきようは、念仏の申されんように」とは、真の現実主義であり、真の理想主義を指し示しているということができる。それは、人間・人生・世界に対する法然上人の深い洞察と体験から滲み出た、珠玉のお言葉であるといわなければならない。

 呪術的世界観と呼ばれる世界観がある。呪術的とはいえこれも一つの世界観ではある(世界観という以上、また人生観・人間観でもある)。呪術にはいろいろな種類があるが、例えば、恋敵に似た藁人形を作り、それに釘を打ちつけて祈ると、遠隔の地にいる相手がもがき苦しむ(はず)という、類感呪術がある。世界はそのように出来ていて、そのように操作できるという観方である。その際、祈りを伴うことによって、念仏と呪術、つまり念仏は呪術とどう違うか、念仏でも祈ることによって何か現世利益を求めることがあるのではないか、といったことが議論されるのである。実際、そのような論議がなされたことがあった(特に昭和三十五、三十六年頃の『中外日報』誌上で)。たしかに念仏にも延年転寿や滅罪の功徳が説かれる。それは現世利益であり、まかり間違うと呪術になるおそれ無しとしない。しかし、呪術は始めから不老不死をうたい、始めから現世の幸福(健康=病気を治し、富、地位等)をめざす。これに対して、念仏の場合、私どもが仏の選択したもうた念仏行にすべてをお任せし従うとき、私どもを超三界の清浄の世界へと救いとってくださる本願力に乗ずることができるのである。そこには始めから現世利益ということは微塵もない。

 西洋思想の最大の巨匠、カントもまた、ほぼ似た問題に取り組んだ。カントは厳格主義の倫理を説いたので、いささかも自己愛のような夾雑物が混入することをしりぞけ、純粋に善意志によって道徳律を、ただそのためにのみ(現世利益のためなどでなく)奉ずることを命じたのである。しかし、このような道徳堅固な人が不幸であることは忍びがたいことである。このような人は幸福に値するのでなければならない。徳(道徳)と福(幸福)とは一致しなければならない。徳福一致である。けれども、そのようなことはあくまで理想であって、この世では達成を期しがたい。死後も永遠の世界があってこそ、このような徳福一致を要請することができる、と考えたのである。カントのこの考えは、あくまで道徳(倫理)の立場に立っており、死後とか永世とかいう、宗教にかかわる境域に触れてはいるが、それを道徳(倫理)の立場から処理しているので、徳福一致も要請というような力弱いものとならざるをえなかった。

 これに対して、「万徳の所帰」といわれる念仏は、呪術ではなく、しかも、私どもを超三界の浄土清浄界へ導く(当世利益)とともに、現実の利益をも伴う(現世利益)。すなわち、延年転寿や滅罪が説かれるのである。

 現世利益、当世利益、いわゆる現当二世の利益において、当世利益が本来めざす目的であり、現世利益はそれに隨伴するものであることはいうまでもない。この〈隨〉(anu)ということが重要である。〈随〉は別個ではなく、伴うものであり、一種の主伴互倶といってよいだろう。念仏行が如実に行われるならば必ずそれに伴って生起する事柄なのである。ちなみに、念仏者には観音勢至二菩薩の隨逐影護があるのも、この〈隨〉である。

 念仏は単なるご利益ではない。それは、はっきりと大利といわれ、他のもろもろの利益である小利と区別される。小野梓(大隈重信を助けて早稲田大学を創始した人物)はJ・S・ミルの『功利論』を訳すにあたり、その「功利」の語を大利と訳した。単なる功利主義ではない、むしろ理想主義を根幹とする功利主義を唱道したミルの「功利」は大利の訳語がふさわしいと考えられる(小野梓は大内青巒と親交があり、青巒は、増上寺・知恩院の福田行誡に師事し、小野もまた行誡の教導を仰いだかもしれない)。

 これまで述べたことをふまえて「念仏の心」とは何を意味するかを整理してみよう。それは、(一)念仏の奥義・本質を意味するとともに、(二)念仏しようとする心、念仏によって生きようとする心、念仏によって生かされ、他を生かし、自ら生きる心、を意味するものと考えられる。

 また「念仏の心」は「選択の心」であるともいえる。「選択の心」は、仏の選択したもうた念仏を、私どもが賜物として受け、これに隨順し、念念相続しつ、弥陀の光に生かされ、他を生かし、自らも生きることに他ならない。

 念仏行は往生行である。共に生かされ、共に生き、共に往くことである。そこには、共生と熟し、倶会一処と指南される当体がある。

 自利・利他・他利の語を吟味してみよう。大乗仏教のかぎりで、まして浄土教においては、自利利他、あるいは自行化他・自覚覚他ではじめて覚行究満・往生究満となることは、あらためて言うまでもない。しかし、選択本願の念仏行はあくまで浄仏国土・成就衆生でなければならない。もとより浄仏国土は仏の国土を浄らかして、成就衆生は人々をそこへと済度することであって、それが原義であるが、その現代的意義(解釈)は、どのようなものであろうか。むしろこの現世を理想的な社会として建設し、現世において衆生を済度することであるといえるのではあるまいか。このことはすでに三十余年以前から論議されている(『仏教論叢』第一号、高畠寛我・佐藤賢順両師の所説)。もしこのように現代的に把握してよいなら、私どもは弥陀の本願力によって生かされている只中で、他を生かし、自らも生きるという、生きざまを求めるべきである。しかも、自先他後でなく、他先自後である(曇鸞『往生論註』)。いささか親鸞流の表現になるが、仏に生かされるのが利他、他を生かすのが他利、自らも生きるのが自利というように、自利・利他・他利を振り分けて用いたい。そのような一種のトリアーデ(三つ組)が「念仏の心」であり、「選択の心」であるといえないだろうか。

 往相と還相ということがある。往相についてはよく説かれる。「共に往く」である。しかし、還相の面については、表現が数少ない。その数少ない表現の中に「還来穢国度人天」、あるいは「十方界に入って苦の衆生を救摂せん」というのがある。それはどのようなことであろうか。「一念に一度の往生をあておきたまえる」ともいわれる。念ごとに往生である。しかし念念相続でもある。一念の往生はいわば小往生で、順次往生の際の大往生へと決定する。私どもは心に「一念に一度の往生」と心得て、往還を繰り返し、「度人天」のことを行い、「苦の衆生を救摂」しつつ、大往生を期すのである。

 かくして、先に挙げた「念仏の心」の(二)の諸義は、現実世界での念仏行の開顕の問題となる。そのような事例を二つ挙げよう。それは渡辺海旭・椎尾弁匡の二師である。

 渡辺博士は、明治期に、新仏教徒同志会に参加し、『新仏教』誌を刊行。浄土宗労働共済会などの社会事業を起こして、共生ないし浄仏国土・成就衆生の教えを、早くも明治末期に実践した。また昭和八年にいたるまで芝中学校の名校長として終生教育事業に献身した。念仏信仰がこのような社会運動・教育事業として、自行化他の範型として現れたことは、大いに注目に値する。博士は、卍(まんじ)教育を提唱した。卍は四つのL(エル大文字)からなるという。Light,Love,Life,Libertyである。Light(光)は知恵の光、Love(愛)は慈悲、Life(生命・生活)はまさしく共生、浄仏国土・成就衆生であり、Liberty(自由)は永年のヨーロッパ生活で得た近代自由主義の自由であると思われるが、根本には仏教の解脱・救済の理念があるとみられる。博士は芝中学校の校訓として「遵法自治」(のちに一時「剛毅敬虔」を加えたことがある)の語を掲げる。その感化・影響するところは甚大で、戦前・戦中に芝中学校に学んだ者には、この校訓とともに、念仏の心が浸透している。

 椎尾博士は、根本仏教(経典)、中国浄土教、日本浄土教の研究を通して、“浄土教の中核”として「共生(ともいき)」の教えを捉え、大正十一年、「共生運動」の旗揚げをした。共生の精神は、博士の「心生き身生き事生き物も生き、人皆生くる共生きの里」という和歌に集約されている。いま学界やジャーナリズムで宣伝されている「共生」はもっぱら人間と自然との共生であるけれども、仏教の場合、共生は縁起の思想に端を発し、阿弥陀仏の無量の生命によって森羅万象が生かされ、私ども人間も「吸う息、吐く息、南無阿弥陀仏」によって生かされているという、念仏の心に基づいている。博士は、法然上人が浄土宗を開かれたのもこの「共生」の精神からであるとする。このような立場から博士が実際に手掛け展開したのは、社会事業、労働問題、政治への参加等々であって、社会・経済・政治等の全般にわたっており、時に東海中学校の校長として教育事業にもたずさわったのである。博士の場合は、「念仏の心」が現世利益(よき意味での)として現れた、一つの典型をなすといえるであろう。

 「念仏の心」の第一義・第二義を合わせ、これまで述べたような把握を試みるならば、人生観・世界観・人間観が「がらりと変わる」ことであろう。「酒のむは罪にて候か。まことにはのむべくもなけれど、世のならい」(一百四十五箇条問答」)という幅のある答えをされた法然上人。しかし他方、「念仏の申されんように」現世を過ごすべしとする一点は絶対にゆずらない法然上人。内剛外柔といわれるそのお人柄のとおり、これに隨順する私どもは、人生観・世界観・人間観を正し、あらぬかたへと堕すことのないように、「念仏の心」を味わい、これになじんでいかなれければならない。

執筆者一覧

布教・教化指針序文−−教諭を拝して−−      真野龍海

本年度の布教・教化目標              真野龍海

教義篇

 第一章−−「念仏」(1)−−『観無量寿経』の念仏 香川孝雄

 第二章−−「念仏」(2)−−『阿弥陀経』の念仏  深貝慈孝

生活篇

 第三章 念仏貯金について             成田有恒

 第四章 念仏と健康                奈倉道隆

 第五章 念仏と死生観               福井光寿

 第六章 念仏と共生観               真野龍海

 第七章 生涯学習体制の進展と教化方策       牧 達雄

 第八章 念仏の生活                藤井正雄

 第九章 念仏の心                 峰島旭雄

布教委員会委員名簿

委員長  真 野 龍 海

副委員長 牧   達 雄

委  員 吉 田 ■(哲) 雄

 〃   野 村 之 彦

 〃   中 村 康 雅

 〃   平   祐 史

 〃   三枝樹 秀 夫

布教・教化指針(平成9年度)

平成9年5月1日  発行

編  集  布教委員会

編集協力  浄土宗出版室

印  刷  (株)共立社印刷所

発  行  浄土宗

浄土宗宗務庁

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電話 (075)525−2200(代)

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浄土宗東京事務所

〒105 東京都港区芝公園4−7−4

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浄土宗

(平成9年度 浄土宗布教・教化指針より)