念仏生活のあり方

 便宜上、宗教を自己肯定の道とに分けて考えてみると、前者は現実に目の前に横たわる願望達成のために、あるいは悩みを解消させるために、利益そのものを目的とし、神仏を操作的に扱いがちになるといえる。

 これに対して、自己否定の場は、人間存在そのものの行き詰まり、すなわち人間はやがて死ぬべき存在であるという、どうにも解決することのできない生死の問題を見つめ、それから解脱することに問題性を見いだし、方向性を定めていくので、そこに自己存在の有限性を超えて、永遠の生命への安住、彼岸が求められることになる。浄土教では、厭離穢土(現世否定)を仏教にはいる入口とし、欣求浄土の志を起こすことを説く。つまり、生を生として、彼岸にとどまっていては、実存の本質はわかるものではないのである。死、すなわち否定を通して、生を見つめかえることによってこそ、現実の生の重みを取り返すことができるのである。過去(生)から現在へ、さらに未来(死)へと、人生の終局を死として捉えるのではなくて、人間は、本来死すべきものであり、死はやがて自分に及んでくるという意味で、死は現実の問題として有意義に捉えていかなければならない。そこに、未来(死)から現在、現在から過去(生)と、時間の逆転が行われてこなければならないのである。

 法然上人が、「つねに仰せられける御詞」のなかで「生けらば念仏の功積もり、死なば浄土へ参りなん。とてもかくても、この身には思いわずろうことぞなきと思いぬれば、死生ともにわずらいなし」というところに、祈る人間の安住の境地があり、「救われた」と功徳をいただことが「生かされて生きる」ことであるならば、今度は報恩に転じて「他を生かす」積極的生き方が生まれてくるといってもいいであろう。

 『無量寿経』巻下に「独生独死」が説かれている。人間は生まれてくるときも一人であるが、最後に死ぬときも一人で死ぬよりほかにないのである。徳川家康が「人の一生は、重荷を負うて、遠き道を行くがごとし、急ぐべからず」と遺訓したように、人間の独生独死の自覚は宗教的自覚につながるのである。それは、人間をどう考えるかではなく、人間をどう見るかの問題なのである。人間は、絶えず他と関係し合うことによって、個となり自己となり得るものであるが、同時に自己の生は他者の生ではあり得ない。いいかえれば、あらゆる人は、一人として同じ生を受けて生きてはいない、ということに目を向けていくべきなのである。この二つの人間存在を見つめることが、真の対話を考えるうえでの第一歩となるであろう。

 自己を他者との関係において捉えることは、他者の外見において捉えることではないはずである。お互いに裃をつけたままでは、心が通い合うはずはない。お互いに地位・名誉・物欲という着物を脱ぎ捨てて裸になったときにのみ可能になるといえよう。宗教の世界は着物だけでなく、心も裸になれと教える。証空上人のいう「白木の念仏」も、このような心境をいっているのだとして差しつかえはないであろう。

(平成9年度 浄土宗布教・教化指針より)