念仏と現世の利益

 法然上人の現世利益に対する考えは、上人と堂上方の女房たちとの問答を集めた『一百四十五箇条問答』にあらわされている。

問、現世を祈りましたのに、ご利益の効験の現れない人はどうしたものでしょうか。

答、現世を祈っても効験がないということは、仏の虚言ではありません。自分の本心が説く通りにしないから効験がないことがあるのです。本心のいうようにすれば、みな効験は現れます。観音を念ずる場合にも、一心に祈りさえすれば効験はあるのです。もし一心に祈らないとすれば効験はありません。前から仏との縁の深い人は、受けるように定められた苦しみも変えることができますが、前も今も仏との縁の浅い人は、塵ほどのわずかな苦しみにも効験がないなどというのです。

 仏を恨んではなりません。ひたすらに現世および来世のために仏に仕えようとする場合には、一心に誠をこめてはげめば、現世においては思うことが叶い、来世は浄土に生まれることになるのです。効験がなければ、自分の心を恥ずべきです。

 この文に見られるように、上人は、心からの誠をこめた祈りは信仰への要石であることと、現世利益は求めずして、おのずと得られることを強調する。「鎌倉二位の禅尼に進ぜられし書」である。『浄土宗略抄』には、「阿弥陀仏の本願を深く信じて、念仏して往生を願う人には、弥陀仏はもちろんのこと、十方の諸仏菩薩、観音勢至、無数の菩薩がこの人の回りをとり囲み、歩いているときも、坐っているときも、寝ているときも、夜、昼を問わず、陰のように寄り添って、いろいろな悩み苦しみをなす悪鬼悪心のたよりを払い除きたまい、現世にはひどいわざわいもなく安穏で、命終わるときには、極楽世界に迎えてくださる。だからこそ、念仏を信じて往生を願う人は、ことさらに悪魔を払おうとして、よろずの仏、神に祈りをしたり、慎みをすることも必要はない」と述べ、現世利益を目的とし、手段として祈るといった、そのような祈りは必要ないと明言するのである。

 民間の習俗となっている忌みごもりに対しても、「仏教には忌みということはない」と述べ、念仏以外を雑行とする立場を貫き、さらに、「祈りによって、病も治り寿命も延びるならば、だれ一人とし病み死ぬ人はないことになる」と語調を強めて、そのような祈りを強く否定している。

 このように、求めずしておのずと得られる現世の利益には、重く受くげき宿命となっている病も、軽くすませることができる「転重軽受」をあげ、また『選択集』の第十五章段には、わざわざ「念仏現世利益編」を設けて、滅罪護念、見仏、延年転寿など、念仏者の受ける現世利益を『浄土三部経』『観念法門』などの諸経論を引用して述べているのは、このような立場からである。法然上人が始覚法門に立って、決定往生・未来往生・彼岸往生を説くのに対して、親鸞は本覚法門に立って、即得往生・此岸往生を説く点で、同じ念仏門でも違った立場に立つが、現世利益には共通のものを見いだすことができる。

 嘉祥大師吉蔵は『法華義疏』のなかで、観音のご利益をいただく条件を四つ挙げている。第一の条件は、一心に名をとなえたかどうか、心の底から誠をもって祈っているかいないか。第二の条件は、利益を与えるか与えないかの決定は、仏の側にあること。つまり、仏の側からみて、利益を与えた方がいい場合には与え、与えてはよくない場合には与えないのである。したがって、AとBとが互いに呪い殺すというような願いをしても、仏は採用しないというのである。第三の条件は、観音と結縁の厚い薄い、つまり、観音との結びつきの深さの問題である。いいかえれば、平素からの善行が問題とされるのである。第四の条件としては、不定は救うことができるが、定は救えないとするものである。定とは自らなした悪行に懺悔の心がなく、また、それを隠し、偽り、悪行が習性になっている場合であり、救えないというのである。ただひたすら悪行を悔い、善心にたち返るものだけが救われるのである。

 中国の南北朝から隋の時代にかけて活躍した、浄影寺慧遠(五二三−五九二)は、その著『大乗義章』のなかで回向(廻向)を菩提回向、衆生回向、実際回向の三種に分類している。このなかで衆生回向は追善回向に当たるが、追善回向が何故に可能なのかについて述べている。すなわち、仏教では自業自得が説かれる。親は子供に財産は分かち与えることはできても、力・智力などの精神的な面を死後相続させることはできないのに、死者に善い行いを振り向けることができるのは何故かを問うたものである。答えは、追善回向が死者にその願いを届けることが可能なのは相互の縁であると説明している。具体的に例をもって示すと、たとえばある人が、亡父の三年忌を思いたって法事を営んだとする。このとき、その人が僧侶の読経のあとの説法で仏教の教えを知り得たとすると、この法事が縁でその人は仏道を歩むこととなり、やがてその人は仏果を得ることになるであろうというのである。結縁というのがそれで、縁日というのは仏との縁を結ぶ日ということであり、日本庶民仏教史の上で、縁日は仏教と庶民を結ぶ大事なパイプ役を果たしてきたのである。

(平成9年度 浄土宗布教・教化指針より)