現世利益とは仏教語で、『法華経』薬草喩品第五の「是の諸の衆生、是の法を聞き己って、現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て薬を受け、亦法を聞くことを得」の文がよく知られている。すなわち、現世利益とは法を聞くことによって直接この身に得られる利益を指すのであるが、釈尊から直接、法を聞くことのできない現在においては、釈尊の遺された経典を信じ、読誦ないし経典の要諦を集約した真言・念仏・題目を唱えることによって得られる、現世における利益と言い換えることができる。
ただここで問題となるのは、具体的には現世利益がいかにしてもたらされるかという手順およびその効果についてである。同じく『法華経』薬草喩品はつづいて、「其れ衆生あって如来の法を聞いて、若しは持ち読誦し説の如く修行するに、得る所の功徳自ら覚知せず。所以は何ん」という問を発している。すなわち「如来の法を聞いて、経典を読誦し、その教えるとおりに修行したのに、どんな功徳を得たか判らないのはなぜか」という問である。経典はこの問に「三草二木」の比喩をもって答えている。その比喩とは「薬草には、大中小の草があり、また大小の木があって、その大きさは同じでないにしても、雨は山川、渓谷、土地に生えた大小、長短さまざまな草木に降り注ぐ。そして、それぞれの草は、雨の潤すところによって生長し、果実を実らせる」というたとえである。
この比喩の中で、あらゆる山川・渓谷・土地を潤す雨は、仏の平等大慧を意味し、その雨の恵みを受けて生長する大小、長短さまざまな草木は、衆生を表している。この比喩のいわんとするところは、仏の慈悲と救済は、すべての人びとに対して平等に差し伸べられているが、人びとには素質、能力の差があるので、その受ける利益は異なってくること。したがって、仏の慈悲と救済が平等であることによって、仏の教化を受けると、草木が雨の恵みを受けてその種に応じて生長し、花を咲かせ実を結ぶように、いずれの人もいつかは等しく悟りにはいり、世を救うものになるのだと説いている。
ここで注目したいのは、「得る所の功徳自ら覚知せず」というくだりである。ここに一貫して流れているモチーフは、仏教の最終的な目標が成仏にあって、すべての日常生活はそのための仏道の修行だということで、功徳は自ら気づかなくとも付随的に得られているのだということを強調していることである。
したがって、利益は修行に付随して得られるものである以上、それぞれの機根によって受ける利益は異なっても、「現世安穏、後生善処」は一つのもので切り離すことはできないということを表現していることになるであろう。このことは、来世に受くべき利益を当益と言い、現世に受くべき利益を現益・現生益・現世利益と言い、神仏の霊験はとくに利生と呼ぶこともあるが、現当二世の利益と熟して用いられることによっても知られる。要約して言えば、現世利益は当益とともに「不求自得」、すなわち仏道を行ずるなかに求めずして自ら得られるものであることが、出家道としての仏教の基本的立場であり、現世利益の概念枠組であるということができるだろう。
(平成9年度 浄土宗布教・教化指針より)