(1)共に
−−個人の心の縁起から
世界・社会の縁起(共生き)へ、
一切の衆生と共に−−
先ず「共生」とあるように、全ての人と「共」にという志向がある。
最初の頃、縁起ということは、心の中の迷いの心−−無明−−から次々関連しながら煩悩の世界を生み出していく関わり合いの有様の説明として言われた。一人の人間の心の中の問題が中心で個人的な縁起であった。
しかし、だんだんと、見方が世界・社会と人間とのあり方へと拡大して考えられるようになり、それは、『華厳経』などに見られる。無数の人々が言葉や人種も違いながら、それぞれのあり方を認めながら、世界全体で、「共」に調和をとろうという行き方である。
とかく仏教は個人信仰に力が置かれるが、個人の安心立命が連続すれば、同心のものは兄弟の心を持つものである。個人を包む大きな世界、それは法界とも言われているが、その中での全ての関わり合い−−縁起が強調されるようになって来た。個人の心の中の縁起に対して世界の縁起−−法界縁起等と言われるものである。
その縁起の見方では、世界の全てのものは、それぞれ別々のものとして先ず存在している。国や民族、国語、習慣等々全て異なりながら、お互いを立てながら、時には、戦争や対立を深めながら、とにかく同じ地球の上で存在してきた。
これは特に『華厳経』等では強調されている。仏様の慈悲の光を太陽の光りのようであるとして、次のように説明してる。
太陽は国境を越えて照り輝き、人種や、言葉のそれぞれ違う国々でも同じように恵みを与えている。それと同じように仏の教は、何人にも受けとめられ、そのエネルギーとならなければならない。
今、「十方衆生」という法然上人のお言葉を引いたが、本来、仏教では衆生という言葉を次のように意味づけをしていたのである。『仏説長阿含経』第二十二に、「無男女卑上下亦、無異名、衆共生世故名衆生」(男女卑上下無く、また異なりが無いので衆と名づけ、衆と共に世に生まれる故に衆生と名づける)と説かれている。衆生の言語のサットバ(sattva)は漢訳では音訳して薩■(タ)とも薩とも表す語である。この衆生の原語を意味の分かりやすいように解釈をしたもので、サットバの原語の前半「サ(sa)が、一つには、同じ、等しい、という意味があることから、前半の解釈にあるように、男女卑上下無く、また異なりが無いと解釈した。さらに原語「サ」には「共に」(サハ=saha)という意味もあることから、後半の共に世に生じる、という解釈も与えられたのである。このような理解で、衆生の原語サットバの意味づけをしながら仏教は人間というものを、全てと共に生きるもの、と解釈して、人間は人間同士、自然、社会、世界と共にあるもの、生るもの、という自覚をうながしてきたのである。さればこそ衆生という訳語が納得できるのである。衆生の衆は、衆、即ち、大勢のもの、大衆と共に生きるものという、解釈であり、それが仏教の人間観でもある。思えば衆生という訳語は言い得て妙である。
「鎌倉の二位の禅尼へ進ぜる御返事」にも、
「弥陀の昔誓いたまいし大願は、普く一切衆生のためなり。無智のためには念仏を願とし、有智のためには余行を願としたまう事なし。十方衆生のためなり」
とあって、念仏は一切の十方の衆生のためである、と法然上人は強調されている。
(平成9年度 浄土宗布教・教化指針より)