「阿弥陀」という言葉の由来が、サンスクリット語(梵語)のamitayus(無量寿)amitabha(無量光)であることはよく知られている。法然上人もこのことを「逆修説法第三七日」の中で次のようにお説きになっている。
今またかの名号に就て、その利益を讃歎せん。阿弥陀とはこれ梵語なり。ここに翻じて無量寿といひ、又無量光といひ、また無辺光、無礙光、無対光、■王光、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光といふ。ここに知る名号の中には光明と寿命との二義を具へたる事を。かの阿弥陀仏の一切の徳の中には寿命を本となし、而して光明勝れたるが故なり。故に今また須らく光明、寿命の二徳を讃歎すべし。
「寿」は、前節で述べたように生命活動を統合する働きである。無量の大いなる(amita)いのち(ayus)、すなわち生きとし生けるものをよりよく生かそうとする大いなるいのちの働きが「阿弥陀」である。慈悲の根源と理解することもできる。弥陀を信じ、弥陀に帰依する人は、大いなるいのちの働きを信じ、いのちの法則に随順して生きる人となる。そして、弥陀の働きは生物的生命に現れるだけでなく、すべてのものごとを調和に導き、安定させる救いの働きとし現れる。ものごとは、すべて縁起の理法によって相互関係的に存在し、しかも常に移り変わっていく。その流れにこだわりが生ずると矛盾や対立が現れる。人生においても、自我中心の生き方でとらわれが生ずると対立や争いが生ずる。その背後には無数の因と縁があり、自分の力でこれを制しようとしても容易にできることではない。自我中心の己の罪深さをざんげして、弥陀の救いの働きにおまかせすることが望まれる。
病気にかかること、それが癒されていくこと、そどちらもこれによって理解できる。人はさまざまな欲望にとらわれ、生命の法則にもとる不摂生に陥ることがしばしばある。これがつみ重なれば病気も生じよう。早い時期であれば、不摂生を改めるだけで自然に治癒する。生命は調和を求め、よりよく生きようと自発的に働く。その働きを妨げる力がとり去られれば自然に回復するのである。大いなるいのちの働きによる救いの現れと理解することができる。
仏教の基本の教えである四聖諦は、「人生の苦を明らかにし(苦諦)、苦はものごとへの執着などから生ずることを明らかにし(集諦)、苦は克服しうることを明らかにし(滅諦)、そのために仏の道を歩むこと(道諦)をすすめている。
この考え方は、医療における診断と治療のすすめ方に似ているといわれる。仏教は病苦に限らず、人生の一切の苦ととりくむが、病気とその治療をモデルにすることによって明確に示すことができる。大いなるいのちの働きは、あらゆる問題の解決(救い)の源であることは言うまでもない。
先に掲げた法然上人の御法語の中に「かの阿弥陀仏の一切の徳の中には寿命を本となし・・・」というお言葉がある。寿命すなわち、大いなるいのちの働きが救いの根本にあることをお教えくださったものと理解したい。
(平成9年度 浄土宗布教・教化指針より)