一、仏教の生命観と健康

 仏教も現代医学も、いのちを重視する。しかし、いのちをどのように観るかという「生命観」は同じでない。現代医学は、人間を精巧な機械にみたてた機械論的生命観に立っている。病気は機械の故障、治療はその修理と考える。それに対し仏教は、力動的な生命活動を柱とする生気論的生命観に立つ。生命活動が身体を造ったり身体を変化させたりすると同時に、その身体によって生命活動が営まれるという相互依存関係を重視する。

 『倶舎論』では、生命を意味する「寿」は、「煖(なん)」と「識」の相互作用の上に成りたったと説き、さらにその寿が、煖と識を統合すると説いている。煖は身体のぬくもりを示す言葉であり、細胞の代謝活動を意味するものと理解される。また、識は認識・識別など、情報の授受や交流を意味するものと考えられる。生命活動にはこの二つが欠かせないが、人間のように高度の生きものでは、個々の細胞の生命活動を統合する働きが必要である。これは生命活動に支えられながらそれらを統合するものであり、「寿」と呼んでいる。寿は、精神活動も含む「いのち」を意味するといえよう。

 このような考え方は、現代医学と矛盾せずむしろ示唆に富むものとして歓迎されよう。近代科学は因果論の上にたつが、仏教は縁起論の上にたつ。これは、原因だけで結果が生ずるという考え方ではなく、縁すなわちものごとのかかわりあい、相互依存関係、条件などが多くの原因とからみ合って結果を生ずる、という考え方である。近代科学も最近はこのような発想を重視するようになってきた。

 仏教の生気論的生命観は、「超自然的な生命」を想定するものではない。自然法則に基づいて営む物質代謝や情報交流が縁起論的に生命活動を構成するとみる。そしてその生命活動が調和的であれば健康が現れ、調和を欠けば病気を生ずる。病気一つも多数の因と縁とによって生ずるものであり、決して偶発的に生じたり超自然的な力で消えるものではない。ひたすら念仏申す人がすこやかとなるのは、念仏者の生活が生命活動に調和をもたらすからにほかならない。

(平成9年度 浄土宗布教・教化指針より)