はじめの八選択は「およそ三経の意を案ずるに、諸行の中に念仏を選択して、もって旨歸とす」の語ではじまる。今まで『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の経文と、それに相当する善導大師の釈文、および必要に応じて他師の文を傍証として、凡夫往生の義を明かしてこられたが、それを要決して、三経の宗致が念仏にあることを明かされるのである。
まず『無量寿経』には選択本願・選択讃歎・選択留教の三選択、『観無量寿経』には選択摂取・選択化讃・選択付属の三選択、『阿弥陀経』には選択証誠の一選択、そこへ傍依の『般舟三昧経』の選択我名の一選択を加え、本願と摂取と化讃と我名の四は阿弥陀仏の選択、讃歎と留教と付属の三は釈迦の選択、証誡は諸仏の選択として、三経を通じ弥陀・釈迦・諸仏が同心に念仏の一行を選択されたことを明かされた。この八選択は、いずれも念仏が選択されたことを示す語であるから、理解の上からは、すべてに念仏を付けて読むのがよい。いわく弥陀の「選択本願の念仏」、いわく釈迦の「選択付属の念仏」、いわく諸仏の「選択証誡の念仏」といった具合である。さらに実感的には、八選択をすべて動詞的に訓んで、「選択して念仏を本願とされた」、「選択して念仏を付属された」、「選択して念仏を証誡された」等というと、一層徹底するのではなかろうか。
次に三選は「速やかに生死を離れんと欲せば」の語にはじまる五言四句四行の文である。通常、三重の選択とも三選の文とも略選択ともいわれる段であるが、要するに三段階(聖浄二門・正雅二行・正助二業の三選)をもって選択本願の念仏へと導かれるものである。『選択集』全十六篇の意は、この三選の文段に納まるのである。第一選は「二種の勝法の中には、しばらく聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ」である。詳しくは第一、聖道浄土二門篇に説かれている。第二選は「正雅二行の中には、しばらくもろもろの雑行を抛って、選んで正行に帰すべし」である。詳しくは第二、正雅二行篇に説かれている。第三選は「正助二業の中には、なお助業を傍らにして、選んで正定を専らにすべし」である。詳しくこれも第二、正雅二行篇に説かれている。また第三、念仏往生本願篇には、念仏が弥陀の本願として選択された理由が論ぜられている。この三選の文に次いで「正定の業とは、すなわち仏号を称するなり。名を称すれば必ず生ずることを得、仏の本願に依るがゆえに」と選択本願の正定業の念仏を明かして結びとされるのである。
次は偏依善導一師である。「偏えに善導一師に依る」は、法然上人の浄土立教開宗の根本的立場である。浄土宗義は法然上人の私案や今案ではない。専ら善導大師の釈義に導かれて、称名念仏による凡入報土の道を得られ、選択本願の念仏を明きらかにされたのである。偏依善導一師の理由に、およそ四がある。第一は、本宗(聖道門各宗)の立場を捨てない諸師と異なって、善導大師は浄土宗を旨とされたこと。第二は、浄土を宗旨とした人師の中でも、善導大師は三昧発得の人であること。第三は、三昧発得ならば懐感禅師もその人であるが、二人は師弟の関係、釈義も大いに異なる。ゆえに師の善導大師に依ること。第四は、善導大師の師匠の道綽禅師はもちろん浄土の祖師であるが、三昧の発得はなく、自身の往生の得生の得否を善導大師にたずねておられること。等々の理由で、偏えに善導一師に依ると仰せになる。
次いで善導大師鑚仰である。偏依善導一師の理由を述べられた法然上人は「ここに知んぬ。善導和尚は、行、三昧を発して、力、師位に堪えたり。解行、凡にあらざること、まさにこれ曉らけし」と讃え、「いわんやまた時の人の諺にいわく、仏法東行よりこのかた、いまだ禅師のごとき盛徳あらず。絶倫の譽、得て称すべからざる者か」歎じておられる。なおまた「しかのみならず、観経疏を条録するの刻、すこぶる霊瑞を感じ、しばしば聖化に預かれり。すでに冥加を蒙って、しかも経の科文を造る。世を挙げて証定疏と称し、人これを貴ぶこと、仏の経法のごとし」と述べて、善導大師の『観経疏』は、仏の証定のもとに造られているから、経法に等しいことを明かし、以下に善導大師自らがお書きになっている『観経疏』の後序の文を出され、ついで法然上人ご自身の善導大師鑚仰文を置いて『選択集』の後序とされているのである。
仰いで本地を討ぬれば、四十八願の法王なり。十劫正覚の唱え、念仏に憑みあり。
俯して垂迹を訪らえば、専修念仏の導師なり。三昧正受の語は、往生に疑いなし。
本迹、異なりといえども、化道これ一なり。
この文の解釈は不必要であろう。法然上人は善導大師を阿弥陀仏の化身と仰がれる。「本迹、異なりといえども、化道これ一なり」は、法然上人の善導大師鑚仰の極みである。阿弥陀仏が自ら本願とされた念仏を、この衆生界(世間)に弘めるために、人間善導大師として出現され、『観経疏』を著して、本願の念仏を釈出し、我われ凡夫に示してくださったとまで法然上人はいわれる。
貧道(沙門の謙称・法然上人)昔この典(観経疏)を披閲して、ほぼ素意を識り、立どころに余行を捨てて、ここに念仏に帰す。それよりこのかた今日に至るまで、自行化他、ただ念仏をこととす。
とは、四十三歳でご開宗以後、六十六歳(選択集ご述作の年)の今日まで、念仏の一行をもって自行とし、化他行とされたことを述べられるのであって、その手応えを、
まさに知るべし、浄土の教は、時機を叩いて行運に当り、念仏の行は、水月を感じて昇降を得たり。
と仰せになっている。
まことに浄土の教えは、時機相応の生きた仏教であること、念仏を申す人は、感応道交を得て、阿弥陀仏の救いを実感した仰せになる。
選択本願の念仏こそ、我ら人間を生きはたらかせる念仏である。「称うれば、ここに居ながら極楽の、聖衆の数に入るぞうれしき」は、念仏申す者の享受できる「安心」の生活である。この念仏は弥陀・釈迦・諸仏というすべての仏の選択された往生の行であるから、万に一つも間違いはない。ただ仰ぎ信じ念仏を相続すべきことを教えられたのが、この『選択本願念仏集』である。
(平成9年度 浄土宗布教・教化指針より)