第十三篇は「念仏をもって多善根とし、雑善をもって少善根とするの文」の標題である。周知のように『阿弥陀経』には「少善根福徳の因縁をもって、彼の国に生ずることを得べからず」とあるが、法然上人はこの経文と、善導大師の『法事讃』の「極楽は無為涅槃の界なれば、随縁の雑善、恐らくは生じがたし」の文に依って、雑善(諸行)は少善根、念仏は多善根と断定される。あわせて中国南宋の居士、王日休(−−一一七三)の『浄土文』を引いて、私釈段でも念仏は多善根と仰せになる。なお大小・勝劣の二義も加えて、念仏は大善根・勝善根、雑善は小善根・劣善根といわれるが、その理由は略されている。すでに第三、念仏往生本願篇に、念仏と諸行の勝劣の義等は、詳しく述べておられるからであろう。要するに、念仏は多善根・大善根・勝善根のゆえに、信じて行ずべきことを説かれるが、この第十三、念仏多善篇である。

 第十四篇は、標題の「六方恒沙の諸仏、余行を証誠せず、ただ念仏を証誠したもうの文」で明らかなように、諸仏は余善諸行を証誠せず、念仏のみを証誠されることを示される。篇初の掲文は経文でなく、善導大師の釈文のみである。釈文自体がすべて『阿弥陀経』の諸仏の証誠に依るから、それで足りるのである。

 ここでの問題は、六方諸仏の証誠が、なぜ念仏の一行に限るのか、ということである。第七、光明唯摂念仏行者篇とも関連するが、法然上人は善導大師の釈意に依って、念仏は本願のゆえに証誠があり、余善雑行は本願ではないから証誠はないと仰せになる。

 証誠の意味であるが、私釈段には詳釈はない。善導大師の『観経散善義』に依ると、「十方の仏等、衆生の、釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐畏して、すなわち同心同時におのおのの舌相を出して、■(遍)ねく三千世界に覆って、誠実の言を説きたもう。汝等衆生、皆まさに釈迦一仏の所説・所讃・所証を信ずべし」とあり、良忠上人の『選択伝弘決疑鈔』には、「証誠とは、誠は実なり、証はなり。いわゆる諸仏、釈迦所説の念仏は、これは誠実の語なりと証明したもう」とある。ただし諸善万行も往生の諸行である。諸仏の証誠は念仏に限るといっても、諸行が不誠実の語というのではない。念仏も諸行も仏説である。しかし本願の行は念仏であるから、いわゆる「諸行往生称名勝、我閣万行選仏名」の関係にある。『無量寿経』や『観無量寿経』では念仏が説かれるが諸行も説かれる。ゆえにその時は証誠はない。念仏のみの『阿弥陀経』に至って、諸仏ははじめて証誠されたのである。また法然上人は、証誠の言はないけれども、念仏が説かれた以上は、『無量寿経』や『観無量寿経』にも証誠はあるのが道理と仰せになる。要するに、念仏には六方恒沙の諸仏の証誠である。ゆえに信じ行ずべしというのが、この第十四、六方諸仏唯証誠念仏篇の意である。

 第十五篇は「六方の諸仏、念仏の行者を護念したもうの文」の標題である。前第十四篇に継ぐもので、偈文に経文はなく、善導大師の釈文だけである。釈文はいずれも『阿弥陀経』を引証しているから問題はない。法然上人は私釈段で「ただ六方の如来のみあって行者を護念したもうや」と、自問し、「六方の如来に限らず、弥陀・観音等もまた来って護念したもう」ど自答されるに止まるが、掲文の善導大師の『観念法門』には、「護念経という意は、またもろもろの悪鬼神をして便りを得しめず、また横病・横死・横に厄難あることなく、一切の災障、自然に消散す。不至心を除く」とある。私釈段に引用の『観念法門』には、「すでに護念を蒙れば、すなわち延年転寿を得」とある。これらの文は、法然上人が念仏の現世利益を明かされる依拠として注目されるのである。浄土宗学の泰斗、石井教道博士は、この第十五篇を「念仏現世利益篇」と立て、掲文の『観念法門』は「現生利益論」の証拠であると示しておられる。

 この第十五篇における法然上人のご言葉は、前出の自問自答だけで、私釈段もすべては善導大師の釈文である。釈文はまた『阿弥陀経』の引用が大部分を占める。したがって法然上人は、念仏の現世利益を、全く善導大師の所説に依られ、善導大師はことごとく仏説に依られたことが解る。念仏の現世利益を法然上人の直説にうかがえないとすれば、まずは善導大師に尋ねるより他はない。

 『観念法門』(観仏三昧と念仏三昧の行法を明かしたもの)は一巻ではあるが、本文中に「依経明五種増上縁義一巻」とあって、五種の念仏の増上縁(利益)が明かしてある。ゆえに二巻の書ともいわれている。五種増上縁義のはじめには、

  謹んで釈迦仏教六部の往生経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経・般舟三昧経・十往生経・浄度三昧経)に依って、阿弥陀仏を称念して浄土に生ぜんと願ずるものは、現生にすなわち延年転寿することを得て、九横(『薬師経』に説くものは、一、病死【薬が得られずして】 二、刑死 三、衰死【生気を奪われて】 四、焼死 五、水死 六、■(食)死【悪獣に食われて】 七、墜死【断崖等から】 八、毒死 九、餓死)の難に遭わざることを顕明にす。下の五縁義の中に説くがごとし。

とあって、念仏申す者が、現生および捨報(往生後)に必ず受ける利益を、仏教に準依して整理すると、五種類になることが明かしてある。

 増上縁という言葉も原語的には繁雑な意味があろうが、ここでは阿弥陀仏の仏力・他力の増上(自分にはない力)を享受するということである。念仏を申す者は、阿弥陀仏の本願力に乗ずることができ、他力のはたらき(功用)を蒙るが、余善余行にこの増上縁はない。そうとすれば、念仏者のみが受け得る他力の縁ということになる。詳しくいうと、念仏申す者は現生と往生浄土以後に受ける二種(現生と後世)の功徳が増上縁の利益である。

 ともあれ五種増上縁は、一、滅罪増上縁 二、護念得長命増上縁 三、見仏増上縁 四、摂生増上縁 五、誕生増上縁であるが、いわれるような病気がなおり、金がもうかるというような生々しい利益ではない。

 五種増上縁の中、現世利益というべきものは、第二の護念得長命増上縁で、その経証が掲文の『阿弥陀経』である。いかなる場合に現生の利益が得られるか、しばらく『観念法門』を逐ってみよう。

   弥陀経に説くがごとき、もし男子女子あって、七日七夜および一生尽くして、一心に阿弥陀仏を念じて往生を願う者。

と、現世利益を受ける者は、短い者で七日七夜、久しい者は一生に通じて、一心に念仏して往生を願う者とある。『阿弥陀経』の「若一日〜若七日」等の念仏は、臨終が迫ったものの念仏と解釈する向きもあるが、そうではなく、尋常の別行、すなわち平生時における別時念仏の意である。善導大師の釈文は、まさしく第十八願文に当てて『阿弥陀経』の念仏を釈してあって、「上尽一形、下至十声一声等」の念仏の意である。このように弥陀の本願に随順する念仏者が、そのままに受ける功徳が現生護念増上縁である。『観念法門』には、さらに、

   この人、常に六方恒河沙等の仏、共に来たって護念することを得。ゆえに護念経と名づく。

とあるが、これは正定業の念仏に励む人には、諸仏の護念が自然にあることを示す。『阿弥陀経』が後半が「護念経」と名づけられるゆえんでもある。また、

   護念経の意は、またもろもろの悪鬼神をして便りを得しめず。また横病・横死・横に厄難あることなく、一切の災障自然に消散す。不至心を除く。

とあるのは、善導大師の「護念経」釈である。至心に念仏するものは天寿を全うするということであろう。なぜか、それは一切の仏の護念が得られるからである。護念とは護り念ぜられることであるが、念仏の人を護るの意もある。第十一、約対雑善讃歎念仏篇に引用の『観経散善義』の文には、

   専ら弥陀の名を念ずる者は、すなわち観音・勢至、常随影護したまい、また親友知識のごとくなることを明かす。

とあり、また先引の『観念法門』には「随逐影護」とか「随逐守護」という語が随処に見られる。これらを合わせ考えると、護念の意味は、一切の諸仏菩薩に、影の形に添うがごとくに護られるから、横難・横死をしないということになる。「延年転寿」も不慮の死を遂げないということであろう。念仏の人は一切の仏菩薩に守護されるからである。

 以上はすべて善導大師が、仏説にもとづいて明かされたことである。ただ至心に念仏する者は、確かにその利益を感得する。あるいは感得できないまでも自然に蒙っているのが現生の功徳というものである。

 第十一篇の私釈段で、法然上人は五種の嘉譽(好人・妙好人・上上人・希有人・最勝人)を得て、観音・勢至の影護を蒙るのは、念仏者の現益であり、浄土に往生して乃至成仏することは、念仏者の当益(来世に受ける利益)であると述べておられる。また道綽禅師の『安楽集』には、念仏の衆生は摂取不捨の利益にあずかることを始益とし、浄土に往生して、阿弥陀仏にまみえることを終益とすることを引いて、「まさに知るべし、念仏はかくのごとき当の現当二世・始終の両益あり」と仰せになっている。

 これらの利益は、いずれも往生浄土のために念仏を申す中に享受できる。念仏者の現世利益は念仏を申す内に約束されているのである。現世利益のために申す念仏ではない。善導大師がわざわさ「不至心を除く」と釘を刺しておられるのは、このことを思われてのことであろう。いずれにせよ、念仏申す者には現世二世の利益がある。なかんづく第十五、六方諸仏護念篇は、念仏者は現世に護念されるという利益を説かれたものである。この諸仏菩薩の護念によって、安穏な生活が保障される。不安なきやすらぎの世界が、念仏者には約束されているのである。

 第十六篇の標題は「釈迦如来、弥陀の名号をもって、慇懃に舎利弗等に付属したもうの文」である。掲文は『阿弥陀経』で、念仏の一行を無問自説された釈迦は、舎利弗等に念仏を付属された。そのことを引かれ、合わせて善導大師の『法事讃』の釈文を添えられたのである

 念仏の法は難信といわれる。世をあげて五濁、その中にあって念仏の一行を説くという難事が成し遂げられた。諸仏は絶讃し、釈尊もまた自讃されたのである。『法事讃』の文は、

   五濁増の時、疑謗多く、道俗相嫌うて聞くことを用いず。修行することあるのを見ては瞋毒を起し、方便破壊して、競って怨みを生ず。

となっている。世間には、この念仏の法を毀滅するという罪を犯して、大地が微塵になるほどの永い時劫を超過しても、三悪道の身を離れることができない者もある。衆生は同心に皆この破法罪の因縁を懺悔せよ、と善導大師は説かれる。前に見たように三経の説意は念仏往生を説くところにある。その総結がこの『阿弥陀経』であるから結経と位置づけられる。しかし現実は、念仏は難信の法で、誹謗破壊する衆生のいかに多いことか。これは釈尊の自説であり、善導大師が体験された事実である。

 以上は第十六篇の標題および掲文に限って述べた。前言したように本篇の私釈段は『選択集』のまとめに相当するので、改めて深く拝読する必要がある。その内容は八選択、三選、偏依善導一師、善導大師鑚仰と次第して、念仏が時機相応の教えであることを示され、最後に『選択集』述作の因縁を述べておわられる。以下はこの順序で述べてみよう。

(平成9年度 浄土宗布教・教化指針より)