六、念仏一門のみ後世に流通せしむ

  『観量寿経』に云わく。「仏は阿難に告げたまわく。汝はよく是の語を持て。是の語を持て、とは即ちこれ無量寿仏の名を持てなり」と。

 以上、定善、散善の諸行が示され、専修念仏の教えが説かれたが、仏は最後に称名念仏の教えを後世に伝えるように、阿難尊者に委託(附嘱)されるのである。そこで法然上人は、何故、仏は定散の諸行を附属したまわず、ただ念仏三昧のみを附属せられるのであるか、とま疑問を提起される。それに対する解答は、定散の諸行(最初の十三観と三福、九品)は本願にあらず。観仏三昧は殊勝の行なりと雖も、仏の本願でないからである、と答えておられる。

 そして最後に、

  諸行は機にあらず、時を失えり。念仏は機に当り、時を得たり。

と末法五濁の世にあって、罪悪生死の凡夫の救われる道は、念仏以外にはあり得ない、という上人の堅い信念が吐露されるのである。このことは、道綽禅師が『安楽集』の劈頭において、

  時に約し、機に被らしめて、勧めて浄土に帰せしむとき、若し教、時・機に赴けば修し易く、悟り易し。若し機、教・時に乖けば修し難く、入り難し。

と、教えは、その時代相と、人々の機限に合って、はじめて修し易く、さとり易いものであるとして、当時の末法到来の五濁世においては、念仏こそが、時と機に相応する教えであると述べておられるが、今の法然上人の言葉も、まさに道綽禅師と同じ論理で、念仏こそが、時機相応の教えであると、ここに強く主張されたのである。

 (文中の挿絵は『和字選択集』から順に「弥陀の光明ただ念仏の行者を摂益し給う」、「二河白道の譬喩」、「四修の行業によりて念仏を策励す」、「弥陀来迎して念仏の行者を讃歎し給う」、「観音勢至念仏行者の勝友となり給う」、「釈迦牟尼念仏を以て阿難に付属し給う」の図)

(平成9年度 浄土宗布教・教化指針より)