二、念仏の行者は必ず三心を具すべし

  『観無量寿経』に云わく。「若し衆生あって、彼の国に生ぜんと願う者は、三種の心を発して、すなわち往生す。何等をか三となすや。一には至誠心、二には深心、三には廻向発願心なり。三心を具するものは、必ず彼の国に生ず」と。

 この文は『観経』上品上生の段に説かれている。善導大師によれば、至誠心とは真実の心で、内相・外相共に虚仮なき真実の心をいうと解釈されている。深心については深く信ずる心であるとされ、法然上人は「生死の家には疑を以て所止となし、涅槃の城には信を以て能入となす」の名文で信が仏道修行の第一歩であることを明らかにされている。いずれの宗教においても信を抜きにしては成り立たないと思われるが、仏教では特に『大智度論』においても「仏法の大海は信をもっと能入となし、智をもって態度となす」とあるように、伝統的に信が強調されている。善導大師の解釈ではこれを二種に分けられる。一は機の深信であり、「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に没し、常に流転して出離の縁あることなし」と信ずることである。この徹底した凡夫観は法然上人も同じことで、浄土教の根底をなすものである。二は法の深信であり「彼の阿弥陀仏は四十八願をもって衆生を摂受し給う。疑いなく慮いなく、彼の願力に乗じて定んで往生を得る」と信ずる他力の信心である。廻向発願心は、今までに行ったあらゆる善根を浄土往生のために振り向けて、往生を願う心である。しかし、異教徒や異解のものが念仏のみでは往生できないと論難して、願生心の揺らぐのを恐れて、善導大師は、次に二河白道の譬えを説き明かされるのである。すなわち、迷いの世界に喩えられた東岸から、浄土に喩えられた西岸に向かう一人の行者がある。後からは群賊悪獣が追ってくる。前には人間の貪欲と瞋恚(にくしみ)に喩えられた水と火の河が渦巻いている。その中央に願生心に喩えられる一筋の白道が西岸に通じているが、幅は四、五寸ほどの細い道で、しかも水波は絶えず道を覆い、火の焔も道を舐めている。ここに至って行者は、行くも死、止まるも死という絶体絶命の窮地に立たされた。その時、東岸から釈迦の声がして「なんじ、ただ決定して、此の道を尋ねて行け。必ず死の難、無けん。若し住まらば即ち死なん」と行くことを勧めた。すると西岸から阿弥陀仏の声がして「なんじは一心正念に直ちに来たれ。我れよくなんじを護らん。すべて水火の難に堕すことを畏れざれ」と招いた。そこで行者は遂に決心して白道を一分、二分進みかけると、今度は東岸より群賊の声がして「なんじ、かえり来たれ。この道は嶮悪にして過ることを得ず。必ず死すこと疑わず」と呼び帰そうとした。行者は、その声をかえりみず、一心に進んで行けば、無事西岸にたどり着き、諸難を離れて、阿弥陀仏にまみえ、善友に喜ばれて、無事浄土に生まれることができた、と説かれる。この譬えは、永く迷いの世界に沈んでいる凡夫も、釈迦の発遣と、弥陀の召喚を信順し、願往生心をもって、ひたすらに念仏することによて、浄土に往生することを明かしている。

 以上は、わば往相廻向であって、迷いの此岸から、さとりの彼岸へ往生する道筋を示しているのであるが、唯自分のみが往生して浄土に安住するばかりが目的ではない。かの国に生まれた人は、大悲の心をもって迷いの世界へ再び還り、人々を教化することも廻向であって、これを還相廻向と呼ぶのである。

 それではこの三心と念仏との関係はどの様であるのか、について法然上人は『東大寺十問答』において、三心に智具の三心と行具の三心のあることを明かし、智具の三心とは、経論などの内容を理解して得られる三心であり、行具の三心とは、念仏する中に自然に得られる三心である、と説かれているところからして、ことさらに三心を具えようと、自力で得るのではなくて、念仏をしておれば、自ずから身に具わってくる徳であると考えられる。

(平成9年度 浄土宗布教・教化指針より)