一、弥陀の光明は念仏者を照らす

  『観無量寿経』に云わく。「無量寿仏に八万四千の相あり。一一の相に、各々八万四千の隨形好あり。一一の好に、また八万四千の光明あり。一一の光明は、遍く十方の世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」と。

 右は第九真身観の有名な文である。一般に仏には三十二の大人相があるといわれているが、ここでは無量寿仏には八万四千の相があると説かれる。そしてその一一の相にも八万四千の隨形好(仏の小さな特相)があるというのも普通は八十隨形好と説明されるのとは比べものにならない程多いが、その一一の隨形好からも八万四千の光明を放って、その光明は十方の世界を照らすと説かれる。しかしその光明は念仏する衆生のみを照らして、余行の者には照らさない、と付け加えられている

 このことについて善導大師は、『観経疏』において三義をもってその理由を説明されている。

 その三義とは、一は親縁で衆生が口に仏名を称えれば仏はこれを聞きたまい、仏を礼敬すれば仏はこれを見たまい、仏を憶念すれば仏も衆生を憶念したもう。仏と衆生とは互いに呼応して親縁関係にあるから、仏は衆生を懐に抱き取ってくださるのである。

 二に近縁というのは、衆生が仏にまみえたいと念ずれば仏は目前に現れてくださるから、仏と念仏者とはまことに近い間柄にあるというべきである。

 三には増上縁といわれ、衆生が仏名をと称えれば、重罪をも除くことができて、命終の時には仏が親しく来迎されるという功徳が与えられると解説しておられる。

 法然上人は、右の三義に念仏は本願なるが故に、念仏者は仏の光明に照らされ、余行の者は本願に非ざるが故に仏の慈悲にあずかることができないとの理由をあげておられる。仏の光明を月の光に喩えて詠まれたのが、浄土宗の宗歌となっている月影の歌である。

  月かげの いたらぬさとは なけれども

    ながむる人の 心にぞすむ

 月の光は世界の隅々までを平等に照らすが、月の光に関心のないものにとっては、月の光が照らそうが、照らすまいが、何ら関係はない。けれどもしげしげと月の光を眺める人にとっては、美しいという感動となり、中にはその感動が詩となり、絵画ともなる。あたかも阿弥陀仏の光明は月の光のようなもので、阿弥陀仏の光明(=大慈悲)は、全世界の人々を照らしているのであるが、信仰のない人にとっては、何ら関係がない。しかし念仏行者にとっては、阿弥陀仏の大慈悲を、いつでも、どこにいても蒙っているという実感を感ぜずにはいられない。つまり、阿弥陀仏の大慈悲が、念仏する人の心にのみ宿るという意に受け取られるのである。

(平成9年度 浄土宗布教・教化指針より)