−−「念仏」(1)−−
『観無量寿経』の念仏
はしがき
法然上人は『選択集』の第七章から第十二章にわたって『観無量寿経』(以下『観経』と略称)所説の念仏が、いかに諸行より勝れ、またいかに時機をを得た教えであるか、ということを明かそうとしておられる。ところで、『観経』に説かれている念仏が『無量寿経』や『阿弥陀経』のそれと異なる点は、明確に「称名念仏」なることを説いていることである。『無量寿経』には、阿弥陀仏の本願が説かれ、その第十八願に「十念」が説かれ、その成就文には「一念」なる語があり、また、『阿弥陀経』には「執持名号」と説かれているが、それが「観念の念仏」なのか「意念の念仏」なのか、はたまた「称名の念仏」なのか、すっきりしないところがある。ただ善導大師が、これらの念仏を「称名念仏」であると解釈されたに過ぎない。けれども『観経』では、その下品上生の段に、
智者は復たに教えて、合掌叉手して南無阿弥陀仏と称えしむ。
仏名を称するが故に五十億劫生死の罪を除く。
とあり、また下品下生の段には、
善友告げていわく。
「汝よ、もし〔仏を〕念ずること能わずんば、まさに無量寿仏の〔の名〕を称すべし」と。かくの如く至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して、南無阿弥陀仏と称す。仏名を称するが故に、念念の中において、八十億劫の生死の罪を除き、命終の時……極楽世界に往生することを得。
と、称名することが明言されているのである。しかもそれが下品下生の五逆罪を犯し、十悪の悪業をなした凡夫も、そのことによって救われるという。法然上人の目指された宗教とは、末代の世にあって、極悪不善の輩も一人残らず救われる教えであったことを思えば、『観経』に説かれる「称名念仏」意外にはあり得なかったというべきである。
(平成9年度 浄土宗布教・教化指針より)