『選択集』第七〜十二章
−『観無量寿経』を中心とした念仏・浄土三部経の再認識−
『選択本願念仏集』のお心を戴く方便として、本年度は、前前年度「選択」、前年度「本願」を承して、「念仏」が目標となっている。
念仏について今更言う必要もないかも知れないが、本年としては、次のようなことを明らにしながら、また、反省点としながら、『選択集』を拝したのである。
第一は、念仏の原点はどこか、ということ。第二には、念仏のご利益とは何か、ということである。その第一が、本年度教義編の内容になる。第二が生活篇である。
教義編では『観無量寿経』『阿弥陀経』を中心とする『選択集』であるから、法然上人の浄土三部経に対してのお示しを考えておかなければならない。三部経全体の構想というか関係を考えていなくてはならないが、ふだんに言われることが少なく無関心でいることの方が多いではないか。
よく『無量寿経』は本願の経故、浄土真宗が根本とし、『観無量寿経』は、開宗の御文「一心専念弥陀名号……」の文が、善導大師『観無量寿経釈』からであるから、浄土宗が中心とし、時宗は『阿弥陀経』の「臨終一時」から宗名があり、同経に重きを置くとされる。
法然上人は浄土三部経を始めて選定し、いずれも同じ価値である、とされる。しかしながら、立教開宗の文から見ても『観無量寿経』は浄土宗の教えの基本的な出発点であることを、理解し、整理しておく必要がある。
その理由の一つは上述の立教開宗の文の出発点であること。第二には南無阿弥陀仏の原点であること。第三には、十悪五逆の者の念仏往生を説くこと。言うなれば、凡夫往生、凡入浄土の根本宗義が、ここにあるからである。この『観無量寿経』が基礎になって、善導大師・法然上人『選択集』によって、初めて他の二経が見直され、同価値とされるのである。分かりやすく図示すると次のようになる。『観無量寿経』の念即称と五逆往生という、レベルというか、視座というか、見方で、右の『無量寿経』『阿弥陀仏』が左の浄土三部経の一つとして取り上げられたのである。我々はこの事を再認識すべきである。
浄土三部経
『無量寿経』(『選択集』第三章)
設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国
乃至十念 (称) 若不生者 不取正覚
削除
『観無量寿経』
<下品上生>作衆悪業…称 南無阿弥陀仏
悪業念仏往生
…除五十億劫生死之罪 念称
<下品上生>作不善五逆十悪…
令声不絶具足十念 称 南無阿弥陀仏
『阿弥陀経』
聞説阿弥陀仏 執持(= 称)名号
『選択集』第十三章私釈段
(龍舒浄土文引用)「持名号以称名」(持=称)
『無量寿経』(選択以前)
設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国
乃至十念 若不生者 不取正覚
唯除五逆 誹謗正法
『阿弥陀経』(選択以前)
聞説阿弥陀仏 執持名号
(平成9年度 浄土宗布教・教化指針より)