この自由は20条1項前段と2項によって保障される。伊藤正巳氏に従ってこれまで裁判などで争われた事例を挙げて重要な問題点を示しておこう。
(1)信仰選択の自由 宗教を信仰するかどうかを決め、またどの宗教を選択するかの自由であり、信仰を告白する自由も含まれる。また、何を信仰の対象にするかの決定も、この自由に属するので、たとえば、創価学会の「板まんだら」の真正性が争われた事例では、国家がこの自由に介入することは許されず法律上の訴訟の対象として国家機関である裁判所は裁判を行えないとしている。
(2)宗教活動の自由 信教の自由の保障の中心をなしている。しかし対社会的な活動が行われることが多いため絶対的自由ではなく、争われることが多い。
a 宗教的行為 信仰の外的行為全て、礼拝、祈祷、儀式と参加、集会とそれへの参加等である。しかしどんなに宗教的行為であっても、生命への危害が及ぶ行為の処罰という国家の介入は許される。たとえば、精神障害を治癒する目的の線香護摩祈祷によって心臓麻痺で死亡させた事例がそれに当たる。オウム真理教の温熱修行も死者が出ているとしたら信教の自由の保障の限界と逸脱したものと解釈されることになろう。一方キリスト教牧師が建造物侵入事件で捜査中の少年を一週間にわたって教会内にかくまって犯人隠匿罪で起訴された事件では、信教の自由の保障する正当な宗教行為の範囲内であるとして罪にならないとした判例がある。
b 宗教上の結社とオウム真理教事件 教会や教団を結成する自由である。特に宗教活動では複数人の集合した活動が特徴になるので重要な権利とされている。ここで誤解してはならないことは、宗教団体と宗教法人は法的には別個のものであることの認識が必要である。宗教団体が法人設立のために所轄庁に規則の認証を求めている宗教法人法は、法人としての資格を与えることができる要件を満たしているかどうかだけを問題にするのであって、宗教団体の結社の自由は前提として認めている。今回のオウム真理教事件に関しては、法人の解散以上の強制力を持たせるために、あえて信教の自由に対する違憲の疑いも一部では囁かれる伝家の宝刀である「破壊活動防止法」によって、法人のみならず結社の解散を図ったのである。もちろん、宗教に名を借りた犯罪行為についても絶対に不可侵ではないことは明らかで、識者が言うように、憲法違反とならずに刑法などの既存の法律による取り締まりも可能であったかもしれない。国家が多くの宗教の自由を奪ってきた戦前の反省に立って、宗教団体の活動や内容の正邪は国家が判断しないというこれまでの国家の姿勢が、今回大きく転回したことの重要性を、信教の自由の重要性を一層認識すると共に、一般市民が宗教に対して神聖特殊性を感じ取れなくなってきたことの証とも認識する必要があるのではなかろうか。
(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)