【明治前期】 国家自体いまだ国家神道体制が確立せず、後のような宗教団体の取り締ま りを目的とした法律も整備されていない状況下で、主に政府の近代化政策との関わりの中で多くの新宗教が弾圧された。近代医療制度が確立していないなか、明治七年の、教部省達書「禁厭祈祷を以って医薬を妨くる者取締方」に代表される民間の呪術的医療の禁止政策が、新たな宗教を出現された。本門仏立宗の開祖、長松清風や蓮門教・島村光津らは、それぞれ「御供水」、「御神水」を用いて治病行為を行ったかどで再三にわたって逮捕拘留された。天理教にいたっては 中山みきは計十八回拘留された。死後も明治二十四年には、東京警視庁で「天理教会ノ看板ヲ掲ケ風俗ヲミダル所為ナル者取締方」が出され、同二十九年には、いわゆる内務省秘密訓令が出され、これを受けた警視庁訓令甲第12号の全文が新聞各紙に翌日掲載された。これは「天理教会取締方」と題し、男女混淆し風俗を乱しあるいは神水神符等を附与して医薬を止めさせ、また寄附を要求しているため厳重な取り締まりを指示したものだった。各地での激しい官憲の干渉のため、教会数は翌年には半減しさらに翌年にはその半数となった。
【大正・昭和期】 国家神道体制の確立と戦時体制への突入の中、明治四十一年に改正せれた刑法に新設された不敬罪と治安維持法による、国家神道体制から公認されない類似宗教に対する激しい弾圧と公認宗教の統制管理がこの時期の特徴である。大正十四年に発布された治安維持法は、当初は宗教団体を意図していなかったため、宗教団体には適用されなかったが、昭和に入り次第に拡大適用が行われ始めた。しかも昭和十六年の改正治安維持法は、条文上にも宗教団体を明文化し、取り締まり対象にしていた。こうして多くの宗教団体が類似宗教、不穏当な団体として弾圧されていった。たとえば大本の開祖出口なおは、辛酉の年の大正十年に世の立て替え立て直しが起ると預言していた。大逆事件、大正三年の第一次世界大戦の勃発、大正六年のロシア革命、シベリア出兵、同七年の米騒動と物価高騰といった社会的に不安な状況の中、大正十年不敬罪並びに新聞紙法違反の容疑で本部一斉捜索検挙が行われた。この事件では有罪だったものの解散に追い込むことができなかったことから、昭和十年、不敬罪と治安維持法違反の徹底した大弾圧が行われた。大本関係の八結社が、天皇制を否定する目的を持つとして、解散させられた。建造物の完全破却が行われ、出口なおの墓も暴かれた。
ほんみちは天理教の信者であった大西愛治郎が組織したものであったが、その教義が天皇並びに天皇制を批判する箇所が見られたため、昭和三年、不敬罪で起訴された。大西は、大審院は、宗教的誇大妄想・宗教的憑依妄想の精神病者の心身喪失中の行為として無罪と判決した。次いで昭和十三年、教団名を天理本道と改めた大西は、『書信』と題する天皇批判書を九百万部刷り、全国信徒を動員して警察、憲兵隊から検事局まで配布した。治安維持法と不敬罪で検挙が行われた。十四年には、禁止解散命令が出された。大西は、無期懲役の判決を受けた。
創価教育学会の牧口常三郎と戸田城聖は、折伏の場で日蓮正宗以外の本尊や神仏を信仰するのは諦法の罪に当たるとして、皇太神宮を礼拝することも諦法となり不幸に陥ると訴えていたが、これが不敬罪と治安維持法違反に当たるとして戸田、牧口以下が起訴された。牧口は、十九年拘置所内で栄養失調のために死去した。
キリスト教系も同様で、国策に協力しない教団は弾圧された。灯台社(エホバの証人)の明石順三は、灯台社教理による世界支配体制変革の一環として日本の国体を変革し、地上「神の国」を建設することを究極の目的とし、国民の国体観念を腐食させ、社会秩序の混乱動揺を誘発することを主要の目的として灯台社を結成したとして、昭和十四年から十六年にかけて検挙された。
一方、大政翼賛という戦争協力の大義のもと、公認宗教団体の統制管理を行うために「宗教団体法」が、昭和十四年に制定された。その主な内容は、国家による宗教団体の設立の認可制と宗教団体が憲法の信教の自由に反した時は認可を取り消すというものであった。こうして公認された宗教団体は仏教のみならずキリスト教の多くの教団も、国家への忠誠をつくし国民教化を行う強力な制度に組込まれて信教の自由を失っていった。
(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)