【織田信長の仏教政策】 信長は、中世以来の延暦寺を中心とした僧の横暴と武装化による政治への介入を最重要の問題と考えていた。十年にわたる抗争の末に一向一揆を平定し、その間の元亀二年(一五七一)、比叡山を攻撃し全山を焼きつくし、その勢力を無力化した。次いで、天正七年(一五七九)、日蓮宗の布教を禁じた。天正九年には、高野山の僧千余人を殺害し、伝統仏教勢力の政治的影響力の一掃を完了した。
【豊臣秀吉の宗教政策】 信長の政治を基本的に継承した秀吉は、寺院の所領の検地を行ない、多くを没収することによって、経済的にも拘束することに成功した。一方キリスト教に対しては、天正十五年(一五八七)、バテレン追放令を発布し宣教師を国外追放し、天正十七年にはキリスト教の禁令を発布した。こうして宗教の政治的影響力を完全に排除することに成功した。
【徳川幕府のキリシタン政策】 徳川幕府の宗教政策はキリシタン禁教で始まった。慶長十七年(一六一二)のキリシタン禁教令に始まり、延宝二年(一六七四)まで、再三にわたって禁教令が出された。神の下の万人平等をうたう教えは、幕府の支配体制を根本から覆すものだったからである。その間、各地でキリシタンや神父の歴史上類を見ないほどの残虐な処刑が相次いだ。幕府と各藩の執拗な弾圧に、地下に潜行した彼等は、「隠れキリシタン」と呼ばれ、各家々などにマリア観音や納戸神、お札などの伝統宗教の形態に隠して、お茶講などと称して集会を持ち、聖職者のいない平信徒だけで二百五十年間、独自の信仰を育てあげてきた。しかしその間にも、明暦三年(一六五七)の「大村郡崩れ」を皮切りに、五回にわたる大規模摘発と殉教が発生した。
【仏教政策】 徳川家康は信長・秀吉の前例から、仏教勢力の支配に腐心した。政治的・経済的に統制することによって、寺院(仏法)を幕藩勢力(王法)の支配下に置くために、各宗派に寺院法度を発布し、本末関係を確立、数学研究の奨励、僧侶の生活規制、僧侶資格の条件に到るまで厳しい宗団、宗派の組織的統制を行った。ちなみに浄土宗には、元和元年(一六一五)に出されている。厳しい統制の一方で、主に寛永八年(一六三一)以前に建立された寺格の高い、いわゆる古跡寺院には、寺領を保障する安堵状(朱印状)が出されたり、一般寺院には、除地と呼ばれる寺院の土地の年貢を免除する制度が認められ、経済的な優遇特権が与えられていた。
一方民衆との関係では、キリシタン政策が仏教に与えた影響は極めて大きい。それは、その後の仏教諸派の在り方を根本的に変えて現在に至っている檀家制度である。この制度のもとでは、すべての家々が宗旨人別改めによってキリシタンでないことを特定の寺に証明してもらい檀那寺とすることが強制された。この制度は寛永十年代、キリシタンの弾圧と時期を同じくして寺社奉行の制度などと共に確立していった寺請制度が元となっている。寺請制度は寺が檀家がキリシタンでないことを保証したことから寺請と呼ばれる。以後、寺院は幕藩体制のなかで、檀家の各種証明や旅行手形発行権限を持ち、異端信仰の調査摘発を行なうなど重要な役割を担わされた。さらに、幕府によって、他宗への法論の禁止や檀那寺での葬儀、法要や年回法要の実施が強調され、経済的な保障がなされた。
こうして庇護を受けた仏教諸派に対して批判的な宗教運動は、異端として徹底的に弾圧された。法華経信者以外の布施を受けず異宗教信者に経を施さないという日蓮宗不受不施派は、日蓮宗の受布施派の執拗な訴えによって、寺請証文が禁止され、各地で弾圧が繰り返された。同様のものに、三鳥派、悲田派がある。また本願寺の異端宗教としては、真宗隠れ念仏がある。これは本願寺の信仰の形式化や堕落を批判して地下にもぐった念仏信仰で、生き仏である善知識への信仰と神秘体験を重視して、教団の法主の権威を否定した。彼らは御蔵法門・土蔵法門・庫裡法門等と呼ばれ、江戸期を通じて本願寺による摘発と幕府による弾圧を受け続けた。
以上の様に、近世までの封建主義社会においては、新たな宗教は、時の政治権力と既得権を持つ既成の宗教によって、常に異端の存在として信教の自由の規制を受けたり、剥奪されてきた。また既成の宗教も、自由な宗教活動が認められてはいなかった。世俗の政治権力が常に宗教に優位し規制しようとしてきた歴史を見ることができる。
(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)