鎌倉新仏教の誕生
日本における国家と宗教の関係は、国家が国家安寧や五穀豊穣のために僧侶に祈願や儀式を行わせる国家鎮護仏教であったことから、僧侶は、僧尼令により国家によって任命される官僧であった。平安時代に入り、末法思想の流布と共に貴族や武士階層に現世利益の加持祈祷を主にした密教や来世の救いを説く浄土教が広まっていった。宗教が個人のものとなり、個人の信仰の問題といて大きく意識され始めたのは、法然上人からと言えるかもしれない。なお、仏教運動が、時の政治勢力や宗教勢力によって弾圧をうける場合、弾圧される側から、それを法難と呼ばれる。
【法然上人の法難】 法然上人の専修念仏運動は、その初期は朝廷の貴族や武士階層に始まったものの、次第に社会的広がりをもち、それに危機感をつのらせた南都仏教や平安仏教の延暦寺などに後押しされた朝廷によって迫害を受けるようになった。
易行の口称念仏によって悪人も救われる、と個人の救済を説く法然の思想はそれまでの社会・政治秩序や宗教世界を否定するものだった。延暦寺衆徒の念仏停止の訴えを受けた法然上人が「制誡七箇条」を作成し弟子に署名させ行動を戒めた元久元年(一二〇四)の「元久の法難」、翌年から始まった、行空・遵西処罰という結果を見た南都興福寺の一連の念仏停止運動、承元元年(一二〇七)に後鳥羽上皇の女房二名の出家に端を発した弟子死罪、上人四国流罪、ひいては上人の遷化を招いた「建永の法難」、法然滅後も運動は拡大の一途を辿ったため、健保五年(一二一七)以降七年間に五度にわたって出された禁令、延暦寺衆徒による法然上人の墳墓が破却されかけた嘉禄三年(一二二七)の「嘉禄の法難」は、大きく「三大法難」と呼ばれる。以後も延暦寺の訴えにより、三名が配流されるなど再三にわたって弾圧は続いた。
【日蓮聖人の法難】 法然の法難以後、宗教的理想世界実現のために時の政治権力と対立する運動が起こってくる。日蓮聖人は法華経の理想世界・常寂光土の現世実現を説き、公然と法華経信仰をもたない鎌倉幕府とその政策を非難し、「竜の口の法難」で佐渡に流罪された。同時に法華信仰運動の弾圧も行われ、門弟も流罪・身柄拘束・所領没収・主従の絶縁などの迫害を受け、壊滅的状態に追い込まれた。
【一向一揆】 承元元年の法然上人の専修念仏の弾圧に連座し、藤井善信という流罪名で越後国府(現在の直江津)に配流された親鸞聖人は、赦免された後は政治権力と直接対決することなくその生涯を布教に捧げた。滅後、その祖廟を中心として本願寺を創立した親鸞聖人の子孫の覚如から数えて八代目法王の蓮如は北陸へ進出し勢力拡大に成功した。この真宗本願寺門徒勢力の増大は、悪人正機や弥陀の前での万人平等の同朋思想を極端に解し、大名・領主など政治権力への対決姿勢を露骨にする動きの中で、在野の不満を抱く武士などを巻き込み、強大な反体制運動、一向一揆へと拡大していった。文明六年(一四七四)、越前吉崎の勝利に端を発し、長享二年(一四八八)の加賀の一揆では、以後一世紀弱に及ぶ歴史的な宗教領国が誕生した。一向一揆は天正八年(一五八〇)、織田信長によって大坂石山本願寺が屈し和睦するまで、最大の宗教的政治権力をもって、武士の支配に対抗していった。
(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)