二 寺・僧侶に対するイメージと葬式仏教の実態

 以上、統計資料の上からも、日本人の多くの人びとが、宗教離れ、具体的には既成仏教教団離れしていく状況を窺うことができたが、その反動として仏教書を買い求める現象は変わっていない。そして、その対極として習俗を形式的に守って行こうという保守傾向が位置づけられるわけで、いうならば宗教離れが進行するなかで、観念と習俗に両極分解しているのが日本における宗教状況であるということになろう。

 このような宗教状況のなかで、現代仏教は習俗を形式的に維持していこうとする保守勢力に支えられた葬式仏教であると評されてくる所以があることになる。葬式仏教と評される現代仏教の実態を「宗教集団の明日への課題−曹洞宗宗勢実態調査報告書−」(曹洞宗宗務庁、昭和五九年三月刊)からみてみよう。この調査報告書は昭和五一年から七年間かけて、全国七ヵ所−北海道・山形県・宮城県・富山県・静岡県・兵庫県・山口県を抽出して、檀信徒、寺院住職ならびに寺院、あるいは教化に対しての檀信徒の意識に関する調査をまとめたものである。なお全体の票から他宗派四四二票(二三・九%)、無回答一九七票(一〇・七%)を除いて、曹洞宗檀信徒一、二〇七票分(六五・四%)の単純集計にもとづき、関連項目を抜粋して、(1)宗教意識の実態、(2)僧侶への期待、(3)寺への期待、(4)教化の実態、の四項目にまとめてみた。

 (1)宗教意識の実態については、「あなたの家に仏壇がありますか」という質問に対して、「ある」が九一・七%、「仏壇があるばあい、あなたは仏壇を拝みますか」との問いに、「毎日拝む」と答えた人は五九・七%、その拝む頻度を問わなければ、実に九〇・六%が拝むと答えており、他宗派のばあい、「毎日拝む」は四九・八%、頻度を問わないばあい七八・二%であるに比べると、先祖への厚い思慕がうかがえる。つぎに、「どんなときに『お坊さん』を訪ねますか」の問いに、「葬式・法事をお願いするとき」が六五・八%、「なんのために『お寺』に行きますか」の問いに対しても、「葬式・法事に参加するため」が八一・一%と高い比率になっている。さらに、「つぎのうち、最も大切だと思うのは何ですか」との問いに、「お位牌」「お墓」と答えた人がそれぞれ二五・九%、三一・六%であり、合わせると五七・五%と過半数を占めていることからみても、また、墓参の理由が墓に先祖がいるからと答えている人が八三・八%を占めていることとあわせて、寺と檀信徒を結ぶパイプが先祖崇拝であること、いうならば葬式仏教を特徴としていることを裏付けているといえるであろう。

 (2)僧侶への期待について、「いま何を望むか」については、「何も望まない」が三七・二%にものぼり、僧侶への強い期待感はないといってよいであろう。そして、「『これからのお坊さん』はどういう人であってほしいですか」との問いに対しては、「普通の人と同じ姿で布教に励む人」と答えた人が三九・二%にのぼっているが、他宗派の数値五一・八%と比べてみると低い。また、「頭を剃り、ころもを身につけた人」四九・五%は他宗派二九・二%と比べると高い。このことは、すでに現代人は出家主義に立脚した僧侶は望んでおらず、髪をのばし妻帯した在家仏教者としての僧侶像が半数以上の人に定着しているなかで、曹洞宗の檀信徒は頭を剃り、衣をまとった僧侶らしい僧侶像をまだ望んでいる人が多いということができる。

 (3)寺への期待については、他宗派とほぼ同じような傾向を示しているが、「簡素で、心にうるおいを与えるお寺」七二・九%、「子供の遊び場となるようなお寺」四八・六%となっている。この回答からみると、檀信徒が望んでいるのは決して立派な豪華なお寺ではなく、質素で心にうるおいを与えてくれるお寺、しかも子供の遊び場となるようなお寺を理想として描いているのである。良寛さんが子供と一緒に遊んだ、そういった一つの心のふる里を志向しているとみてよいであろう。そして、「『これからのお寺』は何をすればよいと思いますか」という問いに対して、「葬式・法事を熱心にする」五〇・三%、「坐禅会などをする」二六・八%となっている。曹洞宗が只管打坐を宗旨とする教団でありながら、坐禅会の開催を希望しているものが三割にもみたないということは、つぎに述べるが、坐禅をしたことがないという人が圧倒的に多いという事実と相関連するもので、教団にとって望ましい姿では決してないのである。

 (4)教化の実態については、教団のホンネとタテマエのずれが問題となって浮上する。菩提寺が所属する宗派名を知っているものは四七・八%と半数にもみたず、宗派の崇拝対象である本尊の名を知っているものは僅かに二二・七%、宗派の本山の開祖を知っているものとなるとさらに低く、九・八%に下ってしまう。さきにも述べたように、只管打坐を宗旨とする曹洞宗にあって、坐禅をしたことがあるものは一七・四%にすぎず、坐禅をしたことがないものは八二・〇%となっている。しかも、今後坐禅をしたいと希うものは二三・〇%、したいと思わないものは五五・八%にも達しているのである。そして、宗教や信仰についての本を読みたいと思うものは三分の一強の三四・一%にしかすぎず、半数弱の四八・九%のものは読みたいとは思わないと回答しているのである。

 都会で葬儀を執行するばあい、あなたの菩提寺、つまり田舎のお寺は何宗であったか、どこの寺であったかが明確でない人が圧倒的に多いというのが実情であることを右の数字は如実に語っているといえよう。半数未満の人しか菩提寺の宗派名を知らないという事実は、曹洞宗のばあいに限られるものではない。さまざまな全国的な統計の結果をふまえて考察すれば、曹洞宗について明らかになった四本の柱についての檀信徒の宗教意識、寺・僧に対するイメージ、教化の実態は、既成教団のどの宗派についてもいえることである。宗派教団に対する意識が希薄であることは、田舎から都会に流出した、いわゆる宗教浮動人口が、葬儀を営んだばあい、その葬式が何宗の僧によって執行されたのか分からない。要するに檀信徒にとって宗派への帰属意識が薄いというところに、実は現代の仏教の特徴があるといってもよいと思われる。いいかえれば檀信徒にとって宗派は何宗であろうとかまわない。葬式さえしてもらえる僧がいて、営む寺があればよいということになるのである。

 だからこそ、都会で葬儀社に葬儀を頼むばあいに、自分の宗旨にこだわらない人が圧倒的に多いということになる。したがって葬儀社が葬儀をリードすることになるというよりは、リードせざるをえない、といったほうが適切であるかも知れない。かつては僧侶が葬儀社に堕しているという批判があったが、現在は、さらに進んで僧侶が葬儀社のもとで使われている、という厳しい状況に至ったと批判する人が多くなっているといえよう。

 このような状況に対して、僧侶が世俗にみずから迎合した、いわゆる俗諦随順の姿勢に批判が集中するのである。

(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)