前節において見たように、明治以降、信教の自由、宗教教育の不徹底から来る問題点は、容易に是正されないとしても、戦後、私立学校における宗教教育の自由、国公立学校の教育や、社会教育の場における宗教情操教育の尊重等、宗教と教育の関わりを重視する条件が、法的に整えられてきたことは大変喜ばしいことである。
しかし、宗教教育、宗教的情操教育を学校教育や社会教育の場で実施をする場合、確信をもって乗り越えねばならない問題が存在する。安易にとり組んでは、所期の目的を達成することが不可能なばかりでなく、挫折することを余儀なくされることも少なくない。
その問題とは何であろうか。
先ず宗教的教育ないし指導に当たる場合、信教の自由の問題が、教導者と被教導者の間に存在する。人は誰でも宗教を選んで信ずる自由と、宗教を信じない自由をもっている。一方教導者は、布教伝道の自由をもっている。この両者の自由な関係において宗教教育はなされるのである。いずれの側からもその立場を強制することはできない。
しかし、教導者の立場からするならば、自己の信奉する信仰に導くこと、教義の宣布は、重要な宗教活動であり、使命ですらある。
被教導者の立場からすれば、教導者の伝道しようとする教義を信奉することも、拒否することもできる自由である。この両者のへだたりをどう克服するかが、第一の課題である。
特に特定の教宗派の信仰については、拒絶反応を示すことが一般的である。しかし、信仰は漠然としたものではない。宗教的とか通仏教的等ということは、理論的には言いえても、私自身にとって、信仰は唯一の道であり、特定の具体的な教宗派の信仰をはなれてあり得ない。また、そのような立場に導くのが教化伝道であるとすれば、そのギャップの克服こそ、信教の自由とかかわる第一の課題である。
次に、明治以降わが国の教育は、西洋的合理主義を基底とし、科学教育の振興に力が注がれ、その点において高水準の結果がもたらされてきた。反面、宗教に対してはすでに述べたように、教育上これを排除し、結果として宗教軽視の風潮を醸成してきた。宗教は非合理的な教えと考える傾向が一般化し、宗教教育ないはし宗教的情操教育の受容を困難にしている。
この問題をどう克服していけばよいか、宗教教育に入る前に横たわる大きな問題点である。
その他種々の問題点が存するが、今は以上の二つを提示したい。
(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)