四、自我の形成としつけ

 幼児期の家庭教育はしつけにつきるとされ、幼稚園や保育所などの保育にもしつけが教育の中心に据えられている園が過半数を越すのではなかろうか。うそをつかない、はいっと返事をする。がまんする。うろうろしない。けんかしない。よい子、やさしい子などの徳目をあげて、大人が管理しやすい柔軟な子の鋳型にいこむのがしつけだと考えられ、一生の方向づけにすることを目標にしているかのようである。

 この裏には三歳では遅すぎるとか、鉄は熱いうちに打て、三つ子の魂百まで、とかいって早教育をはやしたてる商業主義の教育が根をおろしている世相にもよろう。

 「仕付けの糸ははずしてから使うもの、しつけも五歳から七歳ごろにはいよいよしつけ糸をはずしはじめる年齢にあたります。

 秋の空、縫いあげた着物を、母が父に着せようと軽い音をたてながらしつけ糸をはずしていた光景を私は思い浮かべたりします」

と岡本夏木氏は言う。

 氏は、英語でしつけをどうよんでいるかを調べたが、「訓練(training)」「教えこみ(discipline)」「行動をつくりあげる(behavior setting)」とあって、しつけ糸をはずすニュアンスがない。

 しつけは赤ちゃんのころから始まる。睡眠、離乳、排泄排尿と訓練的な色彩が加わる。そしてよちよち歩きから三、四歳で本格化する。赤ちゃんにとって母は世話をし、抱きしめ、遊ぶ存在、不快を取り除く存在だったのが、しつけがはじまると「−なさい」「−してはいけません」と、子どものやりたいことはやらせてもらえないことばかりになり、母は不快な状況に追い込み、否定すると罰を加える人になる。

 しつけの場面では、互いに一個の人間同士として自己をさらけ出し、ぶつけ合うのである。

 もっとも愛する母からしつけられ、苦しみながらも、そこから人間関係を新たに再構成してゆく力や方法を、子ども自身が身につけてゆくことになる。

 養育者や保育者の中には、善し悪しを賞罰を使って機械的に教えこむ人がいるが、これでは動物の調教とかわらない。責任を教えた側がもたなければならないからである。しつけ糸をはずすとは、賞罰とは無関係に「正しいことは正しいがゆえにそれを行い、悪いことは悪いがゆえにやらない」という態度を、子どもが実践的に身につけていくことである。幼児後期の子ども同士や兄弟間の衝突でも、けんかする子は悪い子として、無理に仲よくさせるのではなく、自分たちの力で解決していけるよう、子ども自身の誇りと自信を尊重してやる愛情で励ましてやりたいものである。

 しつけ糸をはずすために養育者のとるべき態度は、仏の本願の前には親も子も共に凡夫で有ることを認め、先ず親が大いなる人格に合掌しお念仏をする、朝起きても、食事のマナーでも、自分ができないことは要求しない。教えるものから励みあう者へ転換が、子どもの自我を形成させるきっかけとなるのである。

(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)