五、“いのち”の根源に秘められるもの、本願

 本願という語には、基本的に二つの意味がある。その一つは、もとからの願いで、菩薩が過去世において、すべての人びとを救おうとして、おこしたもとの願いである。過去世といえば、はてしなき久遠の昔より今に至る時間の経過を意味する。その二は、根本の願いという意味である。あらゆる存在、現象の根本に秘められている願いである。

 生きとし生けるものの“いのち”は、過去に溯れば、先祖を通じ、地球の誕生、宇宙の生成に至る久遠の昔より、悠久に流れ来り未来永劫につながる大生命をうけて、今こそに、生かされ、生きている、すべて無量寿、無量光の大生命によって、此の世に生をうけ、生かされているのであり、その生命のはじめから、あらゆる存在の奥底に、根本に秘められているもの、それが本願である。

 この大生命を阿弥陀仏と号してたてまつり、阿弥陀仏の生命をうけ、阿弥陀仏のはたらきめぐみによって、生かされているのが私どもの生命である。しかもその生命の根本に、秘められている阿弥陀仏のみ心、念い、願いが本願であると領解したい。

 遺伝子学者の説によれば、人の体は何十億年という長年月の時間をかけて、刻みつづれけられた三十億の記号からなるDNAによって導かれ、生かされているという。その三十億の記号を刻んだもの、それは、大自然の無始よりこのかたの働きであり、大自然の念い、願いに他ならないという。それを宗教家は、神といい、仏と名づけるのだといっている。現代の遺伝子の学問は、そこにまで到達し、思い到っている。更にまたその生命が死をむかえるのもまた遺伝子の働きであり、神、仏の念い、願いに他ならないともいう。

 遺伝子学者の説をまつまでもなく、天地のいのち、天地のめぐみ、天地の願いに生かされる私ども、まさに超世の本願によって生かされている私のいのちに合掌したい。更にそのはたらきは、無量劫という未来永劫にわたってはたらきつづける本願力である。そのみ心はお念仏の大音声となって、十方世界に響流している。そしてそのみ仏の心は、心眼あるものにとって、瑞相となって示現したもうのである。

 信仰はまさに世間的な知識の世界、現実を超えて、実在する真実世界である。その真実にふれることのできる魂、情感の世界を深め豊かにしなくてはならない。それは天地に響流する召喚のみ声に呼応するお念仏によってのみ深められ、み仏のみ心、本願にふれることが出来るものといえよう。

 四誓偈のみ心を、お念仏の深まりと悦びの中に、無条件に拝受したいものである。

(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)