四、四誓偈の問いかけ

 以上述べてきた観点に立って四誓偈の要点を味わってみたい。

 先ず、

「我れ超世の願を建つ 必ず無上道に至らん。斯の願満足せずんば、誓って正覚を成ぜ

 じ」

 超世の願とは、世に超えて勝れた願ということであるが、世に超えるとき、先ずは、他の諸仏の願をはるかに超えた殊勝の願であるということで、法然上人は『三部経大意』の中で次のように述べておられる。

  「彌陀如来は因位の時、もはやわが名號を念ぜんものをむかへんとちかひ給いて、兆

  載永劫の修行に廻向し給う。濁世のわれらが依怙、末代の衆生の出離、これにあらず

  ばなにを期せんや。これによりてかのほとけも、みづから我建超世願となのり給へり。

  三世の諸佛もいまだかくのごときの願をばをこし給はず」

とお述べになり、法蔵菩薩はみずからの本願を、三世の諸仏もいまだかつて、お建てにならなかった、三世を超えた殊勝の本願であると示されている。

 三世の諸仏のみ心をはるかに超えた本願であるから、まして世の一切の思量を超えた本願である。このことを四誓偈の最初に頌せられた意味は深遠である。私どもそのことをどのように拝受すべきであろうか。

 布教の現場において、阿弥陀仏のことを人々に説明することは、比較的容易である。無量寿、無量光ということを、法身の立場から説明し、理解させることは、青少年に対してでも可能である。しかし法蔵菩薩因位の本願を、理解−理性を訴えて−させることは大変むずかしい。単なる説話として受けとめてしまいやすい。世間的な理性をもってしては、了解することはできない。そこに超世の意味があると思う。法身仏としての阿弥陀仏の説明理解は可能であっても、本願が成就なされた報身仏としての阿弥陀仏を、どのように現代の人に、合理的思考を偏重する現代人に布教すべきであろうか。

 『大乗起信論』の所説のごとく、真如を説くには、先ずは言説、即ち論理をもってしなくてはならないが、究極は、言に因って言を遣らなくてはならない。即ち一切の言説、論理を超えたところに、真如はある。

 本願のみ心も、到底言説によって説くことが出来ない。それを超えた世界ではあるけれども、言説による説示をすてることはできない。究極まで説示する努力がなされなくてはならないであろう。そのためには、先ず自らが本願のみ心を、納得のいくまで問い続けなければならない。その問題意識なくして、超世の本願を布教することは、現代人には不可能であろう。不可能に終わっては、浄土宗のお念仏の信仰は成り立たない。

 さらに次の、「我れ無量劫に於て大施主となって、普ねく諸の貧苦を救わずんば、誓って正覚を成ぜじ」の領解も同様であろう。未来永劫にわたっての救済の誓願がある。未来永劫なるが故に、現在只今の救済が成就されるのである。永遠の救いを誓われる本願のみ心は、到底凡庸の論理で理解されるものではない。しかしその事が信じられないならば、お念仏の信仰は成り立たない。

 第三の誓いである「我れ仏道を成ずるに至らば名声十方に超え、究竟して聞こゆる所なくんば、誓って正覚を成ぜじ」も同様である。十方世界を超えて、響きわたっている阿弥陀仏のみ名を讃え、称うる声、弥陀召喚のみ声が聞こえるでしょうか。

 第四に、「願わくは我が功慧の力、此の最勝尊に等しからん。斯の願若し剋果せば、大千応に感動すべし。虚空の諸の天人当に珍妙の華を雨らすべし」は、本願のまことなることを、瑞相をもって証明したまえと請われるのである。

 瑞相を現すということは、信仰の世界においてはまことに重要な要素をなすものである。通常の感覚器官の認識を超えた、奇瑞をもって仏意を証明することは、重要なことであり、解信を超えた証信として重んぜられるところである。『阿弥陀経』の六方諸仏の証誠、『観無量寿経』における顕現等、諸経に必ずこれが説かれる。また授戒においても、正授戒の次に証明があり、その証明をうけて、第九の現相を説くのである。即ち諸仏が授戒によって仏子の誕生を、およろこびになって、瑞相を現し証明のまことなることを証せられるのである。お念仏の信仰においても然りである。元祖さまも、善導大師との夢定中におけるご対面を師資相承の証しとされ給い、お念仏の教えの伝灯が成り立つのである。また善導大師を親証三昧の聖者として偏依し給うのである。

 この様な瑞相を現ずることを、単に幻想ととり扱いがちな、現代人に対して、どのように布教していくべきか、もしその問題について自己自身において、解決できないとするならば、浄土宗のお念仏の信仰は成り立たないであろうし、布教そのものも根拠を失うことになるであろう。

 このように四誓偈を拝する時、私どもの信仰に対して根本的な問題が提起されているものといえよう。超世の本願、未来永劫の救い、十方世界に響流している御名号、超世の本願成就にともなう瑞相の現れ、何れも信心の核心にふれる問題である。最初に述べた経文の意味を考えて読誦する態度でもって、容易に領解しうる問題ではない。

 ところでこの四誓偈に示される根本問題は究竟するところ、超世の本願をどのように、私どもが受けとめ、領解するかにかかわっていると思われる。その領解は、人それぞれの立場において、人それぞれが、それぞれに、みずから問いかけ、自ら受けとめ、領解されるべきもので、己の領解を他に強いることも出来ない。自ら深く本願を悦び、本願のみ心に従ってお念仏を申させていただく、その感動の中にのみおのずから他の人の心に響き、共鳴を得る道があらわれるものである。

 そこで本願の受けとめ方、領解の仕方のひとつを参考として提示してみたい。あくまで聖意測り難く、私見の誤りをおそれるのであるが、自己の未熟なる信仰を認めながらの所見である。

(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)