第五章

「四誓偈」の本願

一、経典読誦の意味

 四誓偈は最も簡潔なお経として、ひろく壇信徒に親しまれ、読誦されている偈文である。

 壇信徒がお経を読誦する場合二つの態度をもっている。

 その第一は、お仏壇や、お寺におまいりするときの儀礼のひとつとして読経するということである。一般的にいって、壇信徒は、どのようにして仏前におまいりすればよいのか、おまいりの仕方を習いたいと、住職に申し出ることが多い。そしてその中心が、お経を読誦することで、先ず四誓偈からということなる。

 この場合、その経文のもつ意味について理解する。理解しないは第二の問題であって、その経文を読誦することによって、仏に結ばれるという安心感と、悦びを得ることができるのである。読誦は意味を知らなくてもよい、そのことによって、仏を讃歎することができるのであるという儀礼としての読誦である。

 第二の経典への接し方は、その経典の意味内容を理解し、自らの人生の行き方に資したいという立場である。したがって棒読みの読誦には、関心を示さない。むしろ否定的ですらある。意味を理解するといっても、真実義を把握するのは容易ではないのであるが、現代人の要求は主としてかかる立場であろう。

 布教とは、教義をできるだけ平易に、咀嚼し、布演して聴衆の要求に応えることである。したがって第二の立場に立つことが当然のようであるが、第一の立場を無視することはできない。信仰は単なる知的理解だけではない。むしろ第一の立場は、基本的なものであり、経典を拝読する上においては不可欠な態度であろう。よく「お経さまをいただく」という言葉はこういった信仰からの味わいのある言葉だといえよう。したがって布教はこの二つをふまえて、はじめて充全なる布教であるということができよう。

 四誓偈の説法においても、この二つの立場を深めることはもちろん大切なことであろう。即ち、法蔵菩薩の本願を建つる心を素直に信ずる態度と、その意味するところを深く考察することが大切である。

(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)