第四章

「本願」の現代的意義

 「本願」の現代的意義を述べるためには、「本願」と関連する限りにおいての「現代」なるものをまず把握しておくことが必要である。

 私どもがいま生きているこの「現代」を特徴づけるものは種々あると考えられるが、「本願」と関連する限りでいえば、現代においては真実の意味における願い、その願いの実現を求める真摯な態度、ならびに、その願いの成就を喜ぶ謙虚さが欠けている、と言えないだろうか(信機信法の「信機」の面から)。

 現代における一般の願いは願望として、欲望によって裏づけられている。多々ますます弁ずで、物的な欲望にはきりがない。少欲知足といった、足るを知ることなど、おかまいなしである。他方、心の満ち足りる面は、まことに手薄で、お寒いかぎりである。ここで私どもは真実の意味での願いというものに、思いをいたさなければならない。

 真実の意味での願いは、心の奥底から止むに止まれず湧き起こる、心を満ち足りさせてくれる願いがある。それはもはや物的な欲望ではなく、純粋に心の、心からの願いであることは、あらためて言うまでもなかろう。第十八願「設し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心にに信楽して我国に生ぜんと欲し、乃至十念せんに、若し生ぜずんば、正覚を取らじ」における「十方の衆生、至心に信楽して」がそれを表すと言うことができる。なにか目前の目的を求める、中途半端な、間断する、不完全な願いは、真実の意味での願いではない。

 そもそも宗教の本質とそれに触れる表われとしては、祈り、礼拝、告白等々が挙げられるが、いま述べたような「願い」も不可欠な要素となるべきものである。およそ宗教(成立宗教)の基盤をなす「宗教的なもの」から発するのが、この「願い」である。さきほど「心の奥底から止むに止まれず湧き起こる」と記したのはこのことにほかならない。このような願いとその実現を求める心が現代において欠けていると言わざるをえないのである。

 キリスト教、特にカトリックでは信・望・愛という。信仰と希望と愛である。カトリック神学ではこれを過・現・未に当てて考える。イエス・キリストが十字架で死に、人類の原罪を贖うことで「愛」を示した(過去)。この出来事を私どもは信ずる(現在)。そして未来に救われることを願う(希望)。その過・現・未は現在に当てられた信仰において一体化されている。この中で希望は聖書に言われているように「未だ見えざるものを信ずる」という点でこの「信ずる」という事柄の核心をなす。希望と期待とは異なる。期待は期待はずれ、つまり実現しないことがありうる。希望はそうではない。過・現・未の一本化のなかで、必ず実現するのである。あるいは、必ず実現すると信じられているのである。ちょうど予言と預言とは異なるというのと同じである。予言は当たらないこともある。神からの言葉を預かるという意味の預言は必ず実現する。実現すると信じられている。イギリスの古典経験論者、ロックやヒュームは、自然科学が勃興し進展していった時代に、なお信仰の直観的確実性を疑わなかった。

 十方衆生の「心の奥底から止むに止まれず湧き起こる」願いは、すでに述べたように、かの「宗教的なもの」に根ざしている。およそ宗教にして真実であればそれはこの「宗教的なもの」に根ざしているのである。十方衆生を至心信楽せしめる阿弥陀仏の本願もまた、その意味では、この「宗教的なもの」に根ざしている。本願purva-pranidhanaとは、その原義からして、「まえもって前に置かれもの」であり、すなわち「宗教的なもの」に根ざしている。私どもが「心の奥底から止むに止まれず湧き起こる」願いをもちうるのも、じつは、それが仏の本願に相応しているからである。有限にして罪悪深重、生死流転の私どもは、そのような願いを、自ら起こすことはできない。私どもにそのような力を与えられるのは仏の本願力である。本願(力)相応である(信機信法の「信法」の面から)。

 兆載永劫の昔、因位の法蔵比丘が誓願を立てたことがすなわち「まえもって前に置く」ことにほかならない。願は力を生じ、力は願を支え、果位の阿弥陀仏は、私どもをして、「心の奥底から止むに止まれず湧き起こる」願いを湧き起こらせてくれる。しかも本願力のゆえに、「必ず成就することを得」なのである。期待でなく希望であり、予言でなく預言であることと彼比照合することが求められよう。

 キリスト教、あるいはユダヤ=キリスト教の伝統(ヘブライズム)と並んで、ギリシア精神(ヘレニズム)が、現代にいたるまで、ヨーロッパの思潮の二大根幹をなしていることは、あらためて言うまでもない。古代ギリシア以来、ヨーロッパ思想史を通じて「存在」ということが最大の課題である。(これが中世以降ではキリスト教の“神”の観念と結びつく)現代の実存哲学者、ハイデガーは、現代人は「不在の忘却」に陥っていると指摘する。その因としては、機械化、科学技術の逸脱、非人間化などが挙げられる。いまや「存在の故郷」にもどれ、というのが、ハイデガーの主張である。「存在」は、存在を忘却した現代人の実存に呼びかけ、この呼び声に相応することを願い、これをもってその宿願としている。邦訳「宿願」のドイツ語原語は「内に立ち出でようとする切実な願い」と直訳される。ハイデガーの場合はあくまで哲学であって宗教ではないので、この「存在」のことを「神」とは言わない。せいぜい「神性」とは呼んでいる。「存在」からの呼び声に相応するとき、人は「存在の光」の中に立ち、「存在」は人間実存の「中に立ち出でる」のである。人間はすべてにそのような仕組みの中に、あらかじめ置かれている。ハイデガーはこのことを歴運ないし宿運(邦訳)と名づける。「あらかじめそのように贈られてあること」がドイツ語原語の直訳である。

 このように見てくると、キリスト教圏の伝統、またギリシア精神の伝統と対比しても、宗教にして哲学である仏教でいう本願、特に八百余年前、法然上人によって楷定された本願念仏の教えは、優に規範とされ、信ぜられ、実践されるに値するものであることが理解されるのである。

 本願の念仏に触れよう。法然上人は念声是一の立場から、『選択集』で「弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲を催されて、普く一切を摂せんが為に、造像起塔等の諸行をもって往生の本願と為したまわず、唯称名念仏の一行をもってその本願と為したまえる也」と記している。このような仏の教え、選択された本願念仏の教えに従って私どもが称名念仏を実践するとき、仏が本願において誓われた行の内容と衆生である私どもの修する行とが契合して、先述の本願(力)相応が生起する。

 そこで、称名念仏、念声是一ということの現代的意義を考えてみたい。

 「声に出して南無阿弥陀仏と唱える」ことが求められる。黙っていてもよいではないか、という反論を生ずる。しかし、そうすると、それは同じ念仏でも憶念の念仏、観念の念仏になってしまう。見仏とか観仏への転化する。「声」の宗教的意義は他に徴しても明らかである。イスラーム神秘主義において、歌舞が究極の相とされている。声に出して歌い舞うことが一種の宗教的なクライマックスになるのである。同じセム族の宗教ではあっても、イスラームの場合は、ユダヤ=キリスト教の伝統、ヘブライズムに対して、異なる刺戟を与える事例に富む(なおここで空也−−一遍系の踊躍念仏を思い合わせることができよう。)

 「声」がただ一種のエクスタシーを呼び起こすという心理的なレベルのみではない。「声」はかの心の奥底「宗教的なるもの」に根ざし、そこからほとばしり出るのである。本願もこの「宗教的なもの」に根ざし、私どもの念仏もまた本願力に促されて「心の奥底から、止むに止まれず湧き起こる」願いのほとばしりとして、「声」になるのである。

 ヨーロッパの伝統、特にギリシア精神(ヘレニズム)の系統では、「見る」ことが基本である。かの有名なプラトンのイデア(理念)は、もと、「見る」という動詞に由来する語で、「見られるもの」が原義である。アリストテレスのテオーリア(観照)は、もと、やはり「観る」という動詞に由来する語で、英語ではセオリー(theory理論・学説)となる。知的な「見」「観」ということが基本なのである。ヨーロッパ中世において、ギリシア哲学は、「神学の奴婢」として、キリスト教の中で下位に位置づけられたが、その理知的な「見」「観」の視座は、かえってキリスト教の教義の体系化の中へ浸潤しているといえる。

 「見」「観」は五識の眼識にかかわる。「声」は耳識にかかわる。前者は理知的であり、後者は情緒的である。前者は現在目の前にあるものを見るのが主であるが、見えないものを見ようとするところまで進む。後者はたとえ見えなくても、声のするものを耳に感じることができる。自己の発する声をも自己で捉えることさえできる。その意味で増幅可能である。声は声を叫び、声には声が応ずる。

 本願(念仏)の現代的意義はこれに尽きない。さきほど引用した『選択集』の言葉、

「弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲を催されて、普く一切を摂せんが為に」に注目しよう。仏の平等の慈悲は自他を選ばす(自他不二)、一切を救わんがために、称名念仏を本願となしたもうた。念仏は三心具足の念仏、あるいは念戒一致と言われるが、称名念仏のうちには、称名する自己のみならず、他己をも救いたまえの願いがこもっている。自他不二であり、むしろ他先自後である。他を救わんがために念仏する心は自先他後でなく、他先自後である。しかしまた、他先自後は畢竟、自先他後になるとの指南もある。

 現代社会においていちじるしく欠落しているのは、他への思いやり、同情であると言われる。明治期の異色の思想家、加藤弘之(東大総長、帝国学士院長にまでなった)は、人が他のためと称してなしていることも、うち割っていえば自分のために行っているのだ、と喝破した。つまり人性は本来利他的でなく、利己的であると言うのである。しかし、この評言も次のように解することができるのではあるまいか。加藤弘之は、利他というときでさえ、人性があくまで利他に執着している。そのことを利己ととらえたのである、と。人性が利己的であるか利他的であるかについては、十七世紀から十八世紀へかけて、近代市民社会が成立し進展するイギリス社会においても、論議された。近代市民社会、そして近代的「個」の確立という局面からしては、人性もと自己中心的とみなされる公算はきわめて大であるはずである。ところが、この時代で活発で広く賛同を得た見解は、人性もと利他的であるというのであった。同情、共感が人性の基底にあり、それが社会を調和ならしめる原動力であるというのである。

 人性もと利他的であるとしながらも、そこからかえって、近代市民社会における自己の確立が言われることに注目したい。その場合の自己の確立はもはや利己的でなく、利他的を通過した利己として、すでに利己、さらには利他でさえも、それへの執着を撥無したものであると言わなければならない。このことを、仏教−浄土宗では、いち早く、自他不二、すなわち自先他後でなく他先自後でなければならない、それは畢竟自先他後になる、という言い方で表明している、ということができる。本願の念仏は私ども現代人にこのようなことを教えて余りあるのである。それというのも、いち早く、あらかじめ前に置かれたのが本願であるからである。本願は、この意味で、古くして新しい、新しくして古い、ということてができる。このような性格のものが、現代の危機に際して、その欠落した割れ目を通して噴出してくるのである。

 「本願」も私どもの日常生活の中で生かされ、私どもの生活の支えにならなければ、画餅にすぎない。現代人の特性の一つは「超越的なものへの思い」を欠くところ、さらにこれを真っ向から否定するところにあるといえる。「私は人間を超越したものの存在を認めない、人間は人間だけでやっていける」という人々がいる。はたしてそうであろうか。「私はなにか人間を超越したものを感じる、それが何かは分からない。ただ、そのようなものが私の背後に、私の上に、私の心の奥底にあると信じ、それによって心喜び、心安らかである」という人々もいる。むしろそのような人々のほうが多いのではなかろうか。十九世紀のドイツ・ロマンティシズムでは、このような「なにか」を直観的に予感する、一種の神秘主義が流行した。私どもは、そのような「なにか」があると思うとき、現実の苦闘のさなかで、ホッとする。そのようなとき、この人たちに次のように言うこうが望ましい。「それが仏の本願で、念仏はその気持ちをダイレクトに声に出して言えことなのだ」と。弥陀の本願は脈々として私どもの生活、生きゆくうちに、息づいている。ただ私どもはそれな気づかないだけである。あるいは、私どもは、このように「まえもって前に置かれた」仏の本願を忘却している。それに気づいたとき念仏すると述べたが、逆に、念仏することによってそれを忘却から現実へと声を出して喚起することができる。

 仏教の難しい経典・論書類には、まぎれもない一つの特長がある。それが仏教を単に哲学たらしめず、宗教たらしめている。それは実践・実修ということである。インド仏教の唯識説を説く『唯識三十頌』でも最後のところはこの実修を説く。中国選述といわれる『大乗起信論』でも最後のところはやはりこの実修である。

 これまでやや理屈っぽく述べたことをふまえて、最後は称名念仏の実修であると言いたい。それが本願相応であり、やがて本願成就となるのである。しかしさらに百尺竿頭一歩進んで、まず何よりも念仏すべし、と言いたい。三心具足の念仏、念戒一致の念仏の現代版は、「宗教的なもの」に根ざす「心の奥底から止むに止まれず湧き起こる」願いとその実現を求める切願、声と声との響き合い、他への思いやり等々を、その中に融け込ました念仏である。

 そして最後に、そのことによって「心喜び心安らかに」、ホッとするという心境が私どもの裡に生起し、「三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず」となって、顔に、全身にそれが現れるならば、真実の意味における本願の念仏が行われたということができるであろう。

(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)