「本願」の理解と常民の信仰
一、法蔵説話の不思議
浄土教の念仏信仰において、阿弥陀仏の「本願」が他力救済の根拠として、極めて重視され、かつ重要な意味をもっていることは、今さら申すまでもないことである。けれども実際に布教の現場において、救済の原理となる「本願」の縁って起こる由来を説こうとするとするとき、相当の学問的理解と確固たる信仰を兼備せねばなるまい。
法蔵説話とは、『無量寿経』や『大阿弥陀経』所説の阿弥陀仏が法蔵比丘といった因位の昔、四十八の誓願を立て、これを満足することによって、善妙の国土を成就して、仏となり一切の衆生を摂取するという弥陀の本願の依拠である。就中『選択集』は第十八の「念仏往生の願」を最勝の願としている。
右の所説は、仏説とはいえ、今日的な近代の合理主義に基づく教育を受け、懐疑的、合理的思考方法を備える教養人にとっては、宗教的フィクションでもって構成される説話は信じ難く、説く側も説かれる側も、ともに説き難く信じ難い、文字通り難思・難信の法である。
もちろん、法蔵説話は、現実にあった歴史的事象ではなく、宗教的信仰世界の時空を超越した信仰説話であって、筆者のような歴史家が歴史学の方法でもって、踏み込みる領域ではない。むしろ宗旨的な価値をもつ説話であるから、やはり正統な宗学的方法でもって、今日的に解釈し説明できるよう努めねばならぬであろう。
たとえば、法蔵説話は、現実の歴史的世界にあった釈尊や宗祖の一代の伝歴の中でさえも、多くの宗教的虚構やもしくは宗教的文飾でもって語られる説話が少なくないのであるから、今さら、問題とするに足らないとし、信じ難い者は、縁なき衆生とばかり、浄土宗徒として全く資格のない者で、浄土宗徒となってもらう必要はないと一蹴する思いあがりも甚だしい不遜な教師もみうけられる。
だが「本願」の由来の法蔵説話は、仏伝や宗祖伝に見られるような単なる宗教的文飾と同一視するわけにはいかない。「本願」は人間救済を発動する根元であり、その原動力は本願力として重視されている。それだけに、法蔵説話の信、難信の問題は、無視できない課題である。
それでは、今日の布教界に活躍する布教師に、法蔵説話の理解について尋ねてみよう。
筆者の尊敬する布教家に大阪の服部法丸師がある。師と筆者とは、同期の学友であり、親しく道交を得ているので、双方が互いに遠慮なく宗論が出来る間柄である。その服部師の著『深く信ずべし−布教十訓を拝して−』がある。この布教十訓は布教者の心得を十訓にまとめたもので、その発案者は不明であり、知恩院の布教輪番室に備え付けられている。『輪番日誌』の巻頭に掲げられている訓誡であるそうな。その第一訓に「法を説く者は、まず本願を深く信ずべし」と掲げており、これについて服部師は次のように解説している。
「阿弥陀様の根本の願に、本願ということ。それが法を説く者、我々宗侶の絶対欠かすことのできない一つの道である」といい、さらに「話(法蔵説話)の流れとしては一応理解はできるでしょうけれども、このことばを深く信じるということは、それがあだやおろそかではできません。ですから<自信教人信 難中転更難>という偈文があるのです」と述べて本願の縁って起る信仰説話の理解とその解説の難しさを述べている。いいかえれば「布教十訓」の第一訓に「まず本願を深く信ずべし」と掲げたのは、実は、「本願」の理解にとまどいや疑いのある人が常にあったからこそ、逆に第一訓に挙げられたのではないかと考えられる。
(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)