このように、念仏は阿弥陀仏によって本願の行とされた。法然上人の『つねに仰せられける御詞』に、
法爾の道理ということあり。ほのおは空にのぼり、水はくだりさまにながる。菓子の
なかに、すき物、あまき物あり。これらはみな法爾の道理なり。阿弥陀仏の本願は
、名号をもて、罪悪の衆生をみちびかん、とちかいたまいたれば、ただ一向に念仏だ
にも申せば、仏の来迎(衆生の往生)は、法爾の道理にてうたがいなし。
とある。阿弥陀仏は、名号すなわち南無阿弥陀仏の称名念仏をもって、一切の衆生を救うことを誓われた(本願とされた)のであるから、念仏申せば、おのずから救われる(往生極楽)のである。阿弥陀仏の本願は、そのまま念仏である。
法然上人は『往生大要鈔』では、
聖道難行のさかしき道には、すべて望みをたつべし。ただ弥陀の願の船に乗りてのみ、
生死の海をば渡りて、極楽の岸にはつくべきなり。いまこの船というは、すなわち弥
陀の本願の船に喩うるなり。この本願というは四十八願なり。その中に第十八の願を
もて、衆生の往生の行とさだめる本願とせり。
と仰せになっている。
阿弥陀仏の本願には、一切衆生の往生が誓約されている。一人として漏れるものはない。『つねに仰せられれる御詞』には、また、
弘願といえるは、大経(無量寿経)に説くがごとし。一切善悪の凡夫、生ずることを
得る者は、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせざるはなしと、善導、釈し
たまえり。わがごときの不堪の身は、ひとえにただ弘願をたのむなり。
とある。阿弥陀仏の本願は、すべての衆生を救われる広大な願であるから、大願であり、重願であり、弘願である。凡夫の往生は、この阿弥陀仏の本願の力によるのである。ゆえにまた本願は他力本願ともいわれる。
法然上人はそのことを明かして、
道心の有無を論ぜず。造罪の軽重をいわず。ただ本願の称名を念々相続せんちからに
よりてぞ、往生は遂ぐべきとおもう時に、他力本願に乗ずるなり。(『つねに仰せられ
ける御詞』)
と仰せになっている。他力は仏力である。詳しくは阿弥陀仏の大願業力といわれる。つまり本願の衆生済度のはたらきである。ゆえに本願は単なる過去の願をいうのではなく、必ず本願力という現在のはたらき(力用)をもって解さなければならないのである。
阿弥陀仏の本願力はまた大誓願力・三昧定力・本功徳力(『般舟三昧経』所説)というように、三力によっても示される(善導大師『観念法門』)が、これは本願を、その力用からあらわされたものである。この力用が現にはたらくから、念仏申すものは、すべて阿弥陀仏の本願に乗ずることができ、往生がかなうわけである。それゆえに往生は法爾の道理である。
(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)