第二章

本願と法然上人

 ここにいう本願とは、阿弥陀仏の本願をいう。阿弥陀仏は、その本願を成就された当体の仏であるから、その本願とは、阿弥陀仏が法蔵という名の菩薩であった時に、発された誓願をいうのである。

 浄土宗で、報身の阿弥陀仏を立てるのは、阿弥陀仏を本願成就身、酬因感果身として仰ぐからである。法然上人は、阿弥陀仏の仏身について、次のように仰せられている。

  それ双巻(無量寿経)阿弥陀(経)等の経、および諸論の中に、仏の功徳を説くに無量の身あり。あるいは一身を説き、あるいは二身を説き、あるいは三身を説き、あるいは四身を説き、乃至、華厳経には十身の功徳を説けり。今しばらく、真化二身について、弥陀の功徳を讃歎したてまつる。この真化二身を分かつこと、双巻経三輩の文の中に出でたり。

   まず、真身とは、これ真実の身なり、いわく、弥陀、因位(法蔵菩薩)の時、世自在王仏の所において、六八(四十八)願を発したまうの後、兆載永劫の間、布施・持戒・忍辱・精進等の六度(六波羅蜜)万行(諸善)を修して得たまうところの「修因感報」の身なり真(『逆修説法』)−以下『観無量寿経』等によって、真身と化身について述べておられるが、今は略する。−

 法身・報身・応身の三身をはじめ、化身については、無数といってよいほどの論があるが、それは仏の得られた功徳(内証・外用)が無量であるからである。阿弥陀仏を法身として応身とすることも、仏の功徳の上からは許容されることではあろうが、しかし法然上人は「修因感報」の仏身(報身)と仰がれる。阿弥陀仏の仏身についての法身説や応身説は法然上人にはないのである。ただ善導大師を弥陀の化身と仰がれたことは有名であるが、これは阿弥陀仏の仏身についてではなく、善導大師鑚仰の誠をあらわされたものである。

 『一期物語』には、

  真言経(宗)にいう阿弥陀(仏)は、己心(自己中心)の如来なり。外を尋ぬべから

  ず。

  この教(浄土宗)の弥陀は、法蔵比丘の成仏なり。西方に居ます。その意、おおいに異なり。

  かれ(真言宗)は成仏の教えなり。これ(浄土宗)は往生の教えなり。さらにもって同ずべからず。

と仰せになっている。どこまでも、人間法蔵比丘の彼土(浄土)成仏、すなわち本願成就の、報身の阿弥陀仏が、法然上人の仰せがれる阿弥陀仏である。

 まずもって浄土宗にあたっては、信仰の対象を報身の阿弥陀仏に置くことが大切である。この報身の阿弥陀仏こそが「南無阿弥陀仏」の称名念仏を、凡夫往生の行として選択し、本願として、発心・修行し、願を成就して、阿弥陀仏となられた当体であるからである。法身や応身の阿弥陀仏には、念仏往生の本願はない。

 因みに、仏名について法然上人は、

  阿弥陀仏にも、通号・別号まします。阿弥陀とは別号なり。ここには無量寿・無量光

  という。この別号の功徳は、前々に釈したてまつり候。通号とは、仏というこれなり。

  一切の諸仏、この名を具したまえり。一仏も替わることなし。仏とは、具さには仏陀

  といい、ここには翻じて覚者という。これについて三つの意あり。自覚・覚他・覚行

  円満なり。自覚とは凡夫に異なり。覚他とは二乗(声聞・縁覚)に異なり。覚行円満

  とは菩薩に異なり。これについて意得ば、阿弥陀仏の極楽世界にとって、その国に、

  あらゆる人天に異なるがゆえに自覚といい、かの土の声聞等に異なるがゆえに覚他と

  いい、かの土の菩薩に異なるがゆえに覚行円満という。劫初(この世の始まり)には

  名なし。聖人相議して名をつけたり。初めには百千万の名あり。云云。釈迦の時には十

  号あり。

というのがある。これによっても、阿弥陀仏を自覚・覚他・覚行円満の仏とみておられることは明らかである。

 重ねて法然上人のおことばを挙げると、「登山状」には、

  われ、すべからく衆生のために永劫の修行を送り、僧祇(無数劫)の苦行をめぐらし

  て、万行万善の果徳円満し、自覚・覚他の覚行窮満して、その成就せんところの万徳

  無漏の一切の功徳をもて、われ名号として、衆生にとなえしめん。衆生もしこれにお

  いて信をいたして称念せば、わが願にこたえて生まるることを得べし。名号をとなえ

  ばむまるべき別願をおこして、その願、成就せば仏になるべきがゆえなり。この願も

  し満足せずば、永劫を経とも、われ正覚を取らじ。−下略−

と仰せになっている。

 このように仏という存在を人格的に解されるのが法然上人である。法身という始めからの仏を立てずに、法身を覚証した報身として仏を仰がれるのである。覚行円満の人、それが仏であり、無覚・不覚の人が凡夫・衆生である。この覚への道程において、人天をはじめ、二乗も菩薩も仏もある。

(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)