八、念仏は永遠なり

  当来の世に経道滅尽せんに、我が慈悲哀愍をもて、特りこの経を留めて止住すること

  百歳ならん。それ衆生あって、この経に値わんものは、意の所願に隨って皆、得度す

  べし。

『無量寿経』には「特にこの経を留めて止住すること百歳ならん」と説かれているにもかかわらず、法然上人はこの文の標題に「末法万年の後に余行悉く滅するに独り念仏を留むるの文」とされているのは何故だろうか。この自問に対して上人は善導の『往生礼讃』にある「万年に三宝滅せんに、この経、住すること百年ならん。その時、聞きて一念せば、皆、まさに彼に生まるることを得べし」の文を引いて説明される。

 仏教の歴史観では、仏滅後、正法は五百年(一説では千年)、次いで像法の時代が千年続き、最後に末法の時代が到来して世の中は混乱の巷と化し、その時代は一万年も続いて経道は滅尽すると考えられていた。右の経文に示された「この経」とは、勿論、『無量寿経』のことであって、そこには他の経典には説かれていない本願念仏が説かれている。

 その意味から上人は「この経」をわざと「念仏」に置き換えられたのである。他の教えが一万年もすれば滅してしまう世の中にあって、念仏の教えはなお百年も留まって当時の人びとを救うということについて、宗祖は四つの点より明らかにされているが、その第四に諸行往生と念仏往生との住滅の前後を論じておられる。それによると、諸行往生は末法時の人びとにとっては因縁が浅いが、念仏往生は因縁が甚だ深い。そればかりでなく諸行往生に因縁を結んで往生する人は少なく、念仏往生については多い。また諸行往生は末法万年に限られるが、念仏往生は遠く法滅後百年の代まで人びとを利益するからである、と解釈される。末法万年後、さらに百年ということは、未来永遠を意味し念仏の法門が不滅の真理であることを物語っている。それは阿弥陀仏が無量寿と説かれるように、未来永遠に不滅な仏であり、また過去においても無量劫の昔に世に出られたと説かれることは、無始以来を意味する。したがって過去、現在、未来にかけて、常に人びとの教主として慈悲の手を差しのべられるのであるから、念仏往生の法門は、末法濁悪の世においてこそ人びとを救う教えであり、他の法門は滅しても、念仏の法門のみは未来永遠に不滅な教えであることを示されたのである。

(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)