夫れ四十八願に約して一往各々選択摂取の義を論ぜば、第一に無三悪趣の願とは覩見するところの二百一拾億の土の中において、あるいは三悪趣あるの国土あり、あるいは三悪趣なきの国土あり。すなわちその三悪趣ある■(粗)悪の国土を選捨してその三悪趣なき善妙の国土を選取するがゆえに選択と云うなり。
右は第一、無三悪趣の願について、法然上人は■(粗)悪の国土を捨てて、善妙の国土を取る願として理解され、これを「選択」なる語で表現された。この論理は四十八願すべてに適用されるのであり、第十八願においてもこの論理が展開されている。すなわち、
かの諸仏の土の中において、あるいは布施をもて往生の行とするの土あり。あるいは持戒…忍辱…精進…禅定…般若…菩提心…六念…持経…持呪…起立塔像、飯食沙門、孝養父母、奉事師長などの種々の行をもて、おのおの往生の行とするの国土等あり。
と種々の往生行を示して、
今は前の布施、持戒、乃至養父母等の諸行を選捨して、専ら仏号を称するを選取す。故に選択と云うなり。
として称名念仏行を選び取られたのである。
それでは何故に諸行を捨てて、称名念仏の一行を選ばれたのであろうか。そのことについては、勝劣の義の難易の義の二面からその理由が説明される。
まず勝劣の義については、
初めに勝劣とは、念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。所以は何となれば、名号はこれ万徳の帰するところなり。然れば即ち弥陀一仏のあらゆる四智、三身、十力、四無畏等の一切の内証の功徳、相好、光明、説法、利生等の一切の外用の功徳、皆悉く阿弥陀仏の名号の中に摂在せり。
と、内面的にも外面的にも仏の具えておられるすべての功徳が、この名号の中におさまっているからであると述べられる。たとえば、一軒の家といえば、その中に棟、梁、椽、柱などのすべての材料を収めているが、棟や梁などといえば、椽や柱などを収めないように屋舎に当たるものが仏の名号であり、棟や梁に当たるものが諸行であると説明されるのである。
次に難易の義について、
難易の義とは、念仏は修し易く、諸行は修し難し。
と喝破される。このことは、すでに竜樹が『十住毘婆沙論』の易行品において、また曇鸞は『往生論註』において陸路と水路のたとえをもって説いているが、法然上人はここでは源信の『往生要集』の「念仏を勧むることは、……只これ男女貴賎、行往坐臥を簡ばず、時處諸縁を論ぜず、云々」の文を引いて、
念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きが故に諸機に通ぜず。然れば即ち一切衆生をして平等に往生せしめんがために難き捨てて、易きを取りて本願としたまえるか。
と、すべての人びとに平等に往生の機会を与えるためには、誰でもが容易にできる行として念仏を選取されたのである。
(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)