四、念仏往生の願

  設し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して我が国に生ぜんと欲して乃至十念せんに、若し生ぜずんば正覚を取らじ。

 このようにして建てられた本願の中、第十八願は法然上人によって念仏往生の願と名づけられ、この願を王本願と位置づけてもっとも重視された。そもそも本願の一々に願名をつけることは、七世紀頃に在世した新羅の法位からであって、中国では浄影慧遠が四十八願を摂法身願、摂浄土願、摂衆生願と三分したにとどまっていた。日本では智光は第十八願を諸縁信楽十念往生願、良源は聞名信楽十念定生願といい、親鸞は至心信楽願、往相信心願、念仏往生願などと名づけているが、浄土宗では宗祖の呼称にならって「念仏往生」の願と呼んでいる。

 この中、「至心信楽 欲生我国」について法然上人は『観経釈』に、

  此の経の三心は即ち本願の三心に同じ。謂わく。至心は即ち至誠心なり。信楽は即ち深心なり。欲生我国は回向発願心なり。

 と三心をもって解釈されている。梵本ではこれに対応する適格な語は見出されないけれども、「澄浄な心(prasanna-citta)をもって我れに随念するであろう」と関連づけ得るであろう。「澄浄な心」とは仏教では伝統的に「信」を内容づける心であり、『倶舎論』巻四にも『信とは心を澄浄ならしむるなり』と定義づけられている。

 「乃至十念」の「十念」とはどういうことか。梵本では「十たびの心(dasa-citta)」と記されているから、十度、心に仏を思い浮かべることが原意である。これについて古来、種々の説があるが、善導は『観念法門』に第十八願文を、

  若し我れ成仏せんに、十方の衆生、我が国に生ぜんと願い、我が名字を称すること、下十声に至るまで、若し生ぜずんば正覚を取らじ。

とし、また『往生礼讃』にも、

  若し我れ成仏せんに、十方の衆生、我が名字を称すること、下十声に至るまで、若し生ぜずんば正覚を取らじ。

 と善導流の解釈をして引用し、「十念」が口称念仏であることを主張した。

 法然上人も善導の説を踏襲して「十念」を『観経』下々品の、

  声をして絶えざにしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に念々の中において八十億劫の生死の罪を除く。

 をもって解釈し、「声は是れ念、念は即ち是れ声なること、その意、明らけし」と「念声是一」論を説かれたのである。

(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)