三、法蔵菩薩の出世

  仏、阿難に告げたまわく。乃往過去、久遠無量、不可思議無央数劫に錠光如来、世に興出して無量の衆生を教化し、度脱して皆道を得せしめて、乃ち滅度を取りたまえり。次に如来まします。名づけて光遠という。乃至次をば處世と名づく。かくの如きの諸仏(中略)、皆悉く己に過ぎたまえり。その時に次に仏まします。世自在王如来と名づく。時に国王あり。仏の説法を聞きて、心に悦豫を懐き、すなわち無上正正道の意を発こし、国を棄て王を捐てて、行じて沙門となる。号して法藏という。

 この文は阿弥陀仏の前身である法藏菩薩がいつ、どうして仏道に入られたのであるかを説いた『無量寿経』の一文である。これによると、過去無量劫の昔に錠光如来が世に出られたとある。錠光如来は燃灯仏とも訳され、釈尊より以前に出世された過去仏であるが、その仏から次々と仏が出世し、五十三番目に出世されたのが世自在王仏であるという。ここで問題となるのは「次に」という語である。普通の常識では「次に」というば、「その後に」という意味に取られるのであろうが、この原語はサンスクリット語ではparenaであり、それ自体には「以前に」と「以後に」の両義がある。異訳である『大宝積経』の『無量寿如来会』には「彼の仏の前において」と訳され、チベット訳では「その前のなお前において」と訳されているので、世自在王仏は過去無量劫の錠光如来よりもさらに五十三仏も以前の仏ということであり、想像を絶する過去、もはや永遠の過去を意味することとなろう。その時の国王が世自在王仏の説法を聞いて発心し、法蔵菩薩となったというのであるから、法蔵もまた永遠の過去世に世に出られたこととなる。法蔵は仏に「わたしはこの上ないさとりに向かう心をおこしています。わたしは速やかにさとりを得て、諸々の人びとの苦を抜かせて下さい。そして清浄な仏国土を成就できますように、諸仏の国土の様相をお示し下さい」と懇願した。

  ここにおいて世自在王仏は、即ちために広く二百一拾億の諸仏刹土の天、人の善悪国土の■(粗)妙を説いて、その心願に応じて悉く現じてこれを与えたもう。かの比丘は仏所説の厳浄の国土を聞き、皆悉く覩見して無上殊勝の願を超発す。その心寂静にして、志、所著なく、一切世間によく及ぶものなし。五劫を具足して思惟し、荘厳仏国と清浄の行とを摂取す。

 世自在王仏は法蔵の願いに答えて、二百一拾億の諸仏国土の有様を見せて、それぞれの善いところ、悪いところを説かれた。それらを見聞した法蔵は、そこでこの上なき願をおこし、五劫の間、理想的な国土の実現を熟考され、諸仏国土の善いところを取り、悪いところを捨て、醜いところを捨て、好きなところを取り、そのために不清浄な行を捨て、清浄な行を取って建てられたのが四十八の本願である。『無量寿経』では「摂取」と訳されているが同経の最古訳と考えられる「大阿弥陀経」では「選択」と訳され、法然上人は、この訳を採用して「選択本願」と名づけられたのである。

(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)