『選択集』第三章では、まず『無量寿経』の第十八願をあげて、私釈段には次のように述べられている。
一切の諸仏、各々総別二種の願あり。総とは四弘誓願是れなり。別とは釈迦の五百の大願、薬師の十二の上願などの如きこれなり。今この四十八願は是れ弥陀の別願なり。
ここに総願というのは、仏、菩薩に共通した誓願であり、いわゆる四弘誓願のことであるが、その源を尋ねると、原始経典では仏徳を讃歎する定型文に由来している。すなわち、
かの世尊は〔自ら〕覚りおわって〔他を〕覚らしめんがために法を説く。かの世尊は〔自ら〕調御しおわって…安隠となって…度脱しおわって…般涅槃しおわって〔他を〕般涅槃せしめんがために法を説く。(パーリ『長部』第二五経・『長阿含経・散陀那経』)
右の文は定型文となって外にも数カ所に見出され、いずれも仏徳を讃歎するのである。時代が少し下って部派仏教の論書である『マハーヴァストゥ』(大事)では、「私は仏のような方になりたい」との誓願がある。さらに大乗仏教になると、仏徳を讃歎した文が、そのまま我れの誓願に転ずることとなる。たとえば『法華経』巻三の薬草喩品では、
我れ(如来)は未だ度せざるものを度せしめ、未だ解せざるものを解せしめ、未だ安んぜざる者を安んぜしめ、未だ涅槃せざるものに涅槃を得せしめん。
と説かれ、これに類する文は他の大乗経典に頻出する。現在の四弘誓願は、経文をもととして、中国の天台大師智�『釈禪波羅蜜次第法門』に、�p> 四弘誓願 とは、一に未だ度せざせるものをして度せしめん。亦、衆生無辺誓願度という。二に未だ解せざるものをして解せしめん。亦、煩悩無数誓願断という。三に未だ安んぜざるものをして安んぜしめん。亦、法門無尽誓願知という。四に未だ涅槃を得ざるものをして涅槃を得せしめん。亦、無上仏道誓願成という。
として、ここに四弘誓願そのものが確立した。しかし各宗によってその型は少しずつ異なっていて、とくに浄土宗の場合は、恵心僧都源信の『往生要集』巻上に、念仏を修するものは『往生論』に説く五念門を修すべしとして、その第三、作願門の中で、
衆生無辺誓願度 煩悩無辺誓願断
法門無尽誓願知 無上菩提誓願證
の四弘誓願を説き、その後で、
自他法界同利益 共生極楽成仏道
の二句を加えよ、と教えられていることによっている。
この四弘誓願は、大乗菩薩の誰でもが共通して持つ誓願であり、小乗の場合は余程趣きを異にし、自己のみならず、他者をも救済して共に仏道を成ぜんとの固い誓願であるところに特徴がある。
(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)