(三)本誓偈

『観経疏』玄義文の、

 阿陀本誓願 極楽之要門 定散等廻向 速証無生身

は本誓偈といって日常使用される。私は椎尾大僧正から、弥陀本誓願は『無量寿経』の本願を、極楽之要門は『阿弥陀経』の極楽を、定・散等廻向は『観無量寿経』の定善十三観と散善三観を、それぞれ示し、そして極楽往生として速証無生身という浄土の人となる、というご理解を聞いた事がある。日常に、浄土三部経の内容を理解し、往生の心得を反省しながら、唱えるのは有り難いことだと思う。

 日常、誦経では、『無量寿経』は「四誓偈」で『観無量寿経』は「仏身観」で、『阿弥陀経』は全巻若しくは、前半、後半で、代表して読むのであるが、浄土宗では、何故これらが読誦されるか、の説明がいささか不足しているので、もっと積極的な説明が必要である。教師自身の認識もそうであるが、情報化の今日、一般への布教も、積極的に考慮されねばならない。

 「四誓偈」は本願を説く『無量寿経』の本願の趣旨を、重ねて、適当な長さの経文で、味読をするのであると思われる。熱心な浄土宗の信者方は、『般若心経』のように暗記しておられるし、また、それは、心の支えでもあり、誇りでもある。

 「仏身観」は、『観無量寿経』の、上記の定善(第一〜十三観)・散善(第十四〜十六観)の二善の中の定善に属する第九観になる。しかし、浄土宗の「称南無阿弥陀仏」の念仏は、第十六観だけにお経の文字として示されているのである。

 それでは何故、定善の「化身観」を唱えるのであろうか。説明はあまりなされていない。

 思うに、『選択本願念仏集』で、法然上人が『観無量寿経』は、この第九観の中の「光明■(遍)照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」を取りあげられるからであろう。

(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)