(二)「聞名得益偈」について

 さてこのように本願を説く『無量寿経』の中でも、大切な本願という言葉を含む偈で、日常に使われているのであるが、聞名欲往生という言葉に疑問を感じられたことはないだろうか。

 なぜかと言えば、浄土宗は称名往生を宗旨とするのに、何故、聞名往生かという点である。仏教では、仏像でも釈尊が仏教を説かれて四−五百年の間は作られることがなく、ただ、仏の座る座席とか、空間が示されて、直接に仏像を描いたり作るということはなかったのである。何故だろうか。これを説明するものはないが、想像するに、仏は偉大で神聖な者であるから、不完全な人手で造作するのはおそれおおいという意識であったであろう。仏のみ名も同じ事で、煩悩多き人間が心易く呼びつけるなどは憚られたのである。これは経典に、一般衆生は、自ら仏のみ名を呼ぶのでなく、十方の諸仏方が仏の名を呼ぶのを聞いて功徳を得る等と説かれてあることでも、想像が出来よう。例えば、今日、天皇とか門主の名を直接呼び捨てにはしないで、御名というようなものである。

 しかしながら、長い間には、次第に、聞名といっていたものが、仏教の大衆化とともに称名に置き換えられてきたので、事実上は聞名も称名も阿弥陀仏に対し同じに考えていいのである。

(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)