浄土宗の本願は、『選択集』第三章冒頭の引用文に、次のように、(1)『無量寿経』第十八願と示され、併せて善導大師の(2)(3)のお言葉を引いて、「十念」の「念」は「称」「声」であると説明され、この念仏により往生出来るのは「本願力」であると教えられている。
(1)「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」
(『無量寿経』第十八願)
(2)「……下至十声 乗我願力……」(善導大師)
(3)「……称我名号 下至十声……」(善導大師)
これが、「教諭」に、
私たちは、自らの内に仏の願力を賜っているばかりか、一切の私を生かす力として天
地一切を頂いていたのです。
とお諭しになっている事である。
法然上人は『つねに仰せられける御詞』にも、
ただ本願の称名を、念々相続せんちからによりてぞ、往生は遂ぐべきと思う時に、他
力本願に乗ずるなり。
と仰せられている。我々が、人々が、思い思いに阿弥陀仏の前にに合掌し、称名する時、その念仏を相続させ、称えさせる時、そうさせるもの、目に見えない力が本願力である、と教えられているわけである。
法然上人のお言葉を借りて言えば、善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、多少思い思いは黒白様々でも、一度でも、念仏が申される時、相続される時、他力本願に自然に乗っているわけである。
幼子達が紅葉のような手を合わせている姿は、仏心そのもののように清らかに感じる。若き人が合掌しているのを見ると理屈抜きに殊勝なものを感じる。何がそうさせるのか、それが本願力である、と法然上人は仰せられているのである。しかもこの本願力は阿弥陀仏から「賜っている」のである。
さて、浄土三部経の中で、特に、この本願を説くのは、『無量寿経』であるが、本願という言葉が(A)阿弥陀仏の本願と、(B)一般の菩薩の本願、と二種類あるので、どちらも同じ本願であると見ると混乱をするから、念のために、その二種類を説明する。
(A)阿弥陀仏の本願(原語は 本−願)
其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転
(『無量寿経』下、「浄全」一、二十一、二)
此皆無量寿仏威神力故 本願力故
(『無量寿経』上、「浄全」一、十五、十一)
(B)一般の菩薩の本願(原語は願のみ)
除其本願自在所化 為衆生故 被弘誓鎧
(『無量寿経』上、「浄全」一、八、四)
彼国菩薩…除其本願
(『無量寿経』下、「浄全」一、二十一、十一)
したがって本願と言う場合は、(A)の経文の本願である。どういうものか、『浄土宗大辞典』『仏教大辞彙』『新浄土宗辞典』では(B)の本願自在…の文が引用されているが、「除」の文字でもわかるように阿弥陀仏の本願ではないので、誤りである。
浄土宗では、(A)の「其仏本願力…」を「聞名得益偈」といって勤行式で廻向等に使用されている所以である。
(平成8年度 浄土宗布教・教化指針より)