臨終行儀と看とり

 こうした運動の中で浄土宗教団としてのターミナル・ケアを考える必要がある。少なくとも念仏者としてどの様に関わるか、という理念と方法が問われなければならない。本宗には、ターミナル・ケアの先駆として臨終行儀の伝統が残されている。臨終行儀は「まさに死に直面して、往生を願って念仏を唱える行儀作法」(浄土宗大辞典)であるが、その心得と看病の方法を浄土教的な立場に立つ看病、看死の儀礼とみたのは池見澄隆である。看病、看死、つまり〈看とり〉が念仏者のケアの在り方と見たのである。

 その目的は「三種の愛心をとり除き病者に正念の状態をもたらすこと」としている。三種の愛心とはいうまでもなく、(1)境界愛。親族や家財に対する愛着。(2)自体愛。わが身に対する愛着。(3)当生愛。未来に善い所に生まれたいという愛着である。

 臨終行儀の源は『無常経』(年代不詳)巻末の「臨終方訣」に求められるが、日本では源信の『往生要集』によって形作られた。源信は、道宣の撰述による『四分律刪繁補闕行事鈔』の「瞻病送終篇」によって堂や病室のしつらえ、病者への介護などに関する注意を、善導大師の『臨終正念訣』・『観念法門』によって念仏の重要性を説いて、死の儀礼である臨終行儀を構成した。

 源信によれば、死の病をえたならば無常院に場を移し、尊像を安置し、香を焚き、華を散らして荘厳する。尊像の右手には五色の幡を垂らし、病人は左手でこれを執りて往生を願い、念仏する。もし来迎の姿がみえたならば看病人にその様相を伝え、看病人はこれを記録する。また病人が語ることができない時は看病人はしばしば状況を問い掛け、もし罪相がみえているならば、傍らにいる人は共に念仏、懺悔して罪を滅する。その上で来迎を見るならばこれを記録する。もし尿屎、吐唾があればこれを除き、また看病人は病人の念仏往生を妨げないように酒・肉・五辛を食した眷族、親族を近づけないことなどが記されている。

 ここには病人の行儀以上に瞻病者、つまり看病するものの役割が説かれている。看病人は病人が死を受容し、往生を全うするための援助をするもので、介護と同時に善知識の役割も担っている。源信は臨終行儀を体系化しただけではなく、「二十五三昧会」を組織して実践したこともあって、その影響には多大なものがある。

 この後、多くの臨終行儀が作られる。覚鑁の『一期大要秘密集』、貞慶の『臨終之用意』、また諸種の『往生伝』、そして浄土宗の伝統のなかでは伝法然とされる『臨終行儀』、弁長の『臨終用心抄』、良忠の『看病用心鈔』(または『知識看病用心』)、大日比三師法州の『臨終用心講説』『臨終用心追加講説』などである。

 これらの基礎となっているのは善導大師の『臨終正念訣』、『観念法門』などである。

 法然上人は臨終行儀を重視しなかった。「平生の業成就は、臨終平生にわたるべし」(『常に仰せられけるお詞』)と述べられたように平生の念仏がすべてであり、むしろ臨終と平生をわけることを否定されたのである。

 しかし法然上人ご自身は臨終行儀を必要としなかったが、対外的には認めておられたという解釈もある(玉山成元)。この後、弁長・良忠はこれを重視するようになる。良忠は『看病用心鈔』のはしがきで「往生極楽はこれ一大事の因縁なり、もし知識の慈悲勧誘のちからにあらすよりは、この一大事を成就する事あらむや、これによりて病者は知識にをきて仏の思いをなし、知識は病者におきて一子の慈悲をたるへしといへり、しかれはすなわち病者某甲の所存のおもむきをしろしめして、病にふさんはしめより、命のつきむおはりまて、御用心候へき事ともをしるし申しおき候」と注意を述べている。

 平安から鎌倉時代に作られた臨終行儀の集大成といわれる『看病用心鈔』であるから、詳細をきわめるが基本的には『往生要集』を付加したものといえる。その主題は往生浄土への〈看とり〉にある。例えば、療治灸治は命を延ばすことではなく、苦痛を取り除くことであるから念仏しやすくするためには用いてもよい、しかし身命を惜しむ心根から療治灸治を求めてはいけないという。

(平成7年度 浄土宗布教・教化指針より)