「選択」の現代的意義
〈現代〉に対してはさまざまな特徴づけがなされる。科学技術の高度に発達した時代、それにもかかわらず「こころ」を求める時代、さらには科学技術とはおよそ対蹠的である「宗教」の時代等々。
このようなさまざまな特色づけ、ないしは呼称は何を意味するであろうか。それは価値観が多様化していることを示しているのではなかろうか。これまで往々にして支配的であった一義的な、その意味では専制君主的な価値判断にもはや時代錯誤というほかない。
二、三年前、三大新聞の一つに「新春対談」が連載され、仏教学の泰斗、中村元博士に対して、現代のオピニオン・リーダーである梅原猛氏は次のように言った−今や一神教の専制の時代ではない、多神教の時代である、と。
多神教は、いうまでもなく、複数の神々を認め、それぞれにそれぞれの役割を賦与する考えにもとづく。多価値的(多値的)なのである。現在、宗教多元主義が唱えられている。これもまた多価値的であるものの宗教における表現であると言えよう。
では、このように、さまざまな価値、さまざまな考え方、さまざまな宗教が容認され、併存している現代の状況においては、何が求められているのであろうか。私どもは、それらの多価値・多思想・多宗教をただ眺め見ているのでは済まされない。私どもは、日々、一瞬一瞬、行為し、物事を処理し、生きていかなければならない。そのとき、そのようなさまざまな価値・思想・宗教の中から、自己自身のものとして一つを選び取らなければならないのである。多の中から一を選び取らなければならないのである。
多価値・多思想・多宗教の時代は、じつは〈選択〉の時代なのである。
諸戸素純博士は『法然上人の現代的理解』において法然上人の念仏選択の現代的意義を指摘され、竹中信常博士は数多の著述において選択とは選取選捨でありしかも選捨が選取よりもしばしば語られていることを述べ、それらに先立って佐藤賢順博士は『宗教の論理と表現』において選択の論理性を究明された。法然上人はまさにその現代においてかかる〈選択〉を遂行された、私どもの先駆者であり、仰ぎ見るべき模範である。
〈選択〉とは、多価値・多思想・多宗教の中から一つを選び取り他を選び捨てる、私どもの究極的な選びにほかならない。そこには私どものぎりぎりの価値観・思想性・宗教観が如実に示される。一歩突っ込んで言えば、そのような形で私どもは仏の光被のもと、そのような選択・選取・選捨を行わしめられている、と言うべきである。
〈選択〉がこのような意味で究極的な態度決定であり、決着であることは、他の事例でもはっきりと示されている。川田熊太郎博士は、ギリシア思想・キリスト教思想・西洋哲学・仏教思想等の東西諸思想を吟味したうえで、最終的に仏教の「心清浄の道」を自己自身の立場とされたが、その際、〈選択〉という表現をとっておられる。自己自身にとっての真理性を選択したというのである。
川田比較哲学はそこでは終わらないところに特色がある。ひとたび「心清浄の道」を選取した自己自身は、選捨した諸思想と再び対話・対論していくべきであるとするのである。
ここに述べる〈選択〉についても同じことが言えると考えられる。私どもはひとたび本願の念仏を選取し、否むしろ選取するように仏力によってさせられたうえでは、選捨した諸価値・諸思想・諸宗教と対話・対論し、これらを包摂していかなければならない。それによって〈選択〉の充分な意味が発揮できるのである。自行化他によって念仏行が究満するのである。
ところで、法然上人をはじめとして私どもの諸先輩がこのような〈選択〉をそのつど、そのそれぞれの現代において遂行してきたことは、何を意味するであろうか。それは本願の念仏の〈選択〉が単に一つの現代にとどまらず、永遠の真理であることを示すのにほかならない。
〈選択〉の現代的意義は、〈選択〉の永遠なる真理性のあらわれであることを、忘れてはならない。
(平成7年度 浄土宗布教・教化指針より)